★ ウィンディーさん翻訳劇場(その1) ★


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[11323] ボストンの地元紙も、イチロー選手には脱帽(^^) 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/05/12(Sun) 01:18
ボストン・グローブ紙の今日の試合についての記事です。「イチロー、一人にやられてしまった―」という、我々ファンにとっては非常に嬉しい内容になっています。(^○^)

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         スズキ、シアトルの攻撃をリードする 
           ― ダン・ショーネシー ―
    
http://www.boston.com/dailyglobe2/131/sports/Suzuki_sparks_Seattle+.shtml


今日の試合が我々に教えてくれたことがあるとすれば、「ここは、もう、カンサス・シティーでもタンパ・ベイでもない。」ということだろうか―。(注:ボストンが今まで9連勝して来た相手2チームを指す。)

7年振りとなる10連勝を目指して昨晩の試合に臨んだレッド・ソックスだったが、その行く手をイチロー・スズキとAL西地区トップのシアトル・マリナーズに阻まれてしまった。クーパーズ・タウン(注:「野球の殿堂」のこと)に大事に奉っておきたい程の大活躍をみせたイチローは、セーフコーフィールドの45,833人の大観衆の前で、三塁打とシングルを放ち、13球(8ファールを含む)粘った後に四球で出塁し、3盗塁、4得点を記録して、ボストンを7−2で破る勝利へとマリナーズを導いた。ハル・ホルブルックが「マーク・トゥェイン」を演じて以来の、最高の“ワンマン・ショー”だった。

「実に素晴らしい選手だよ。」と、レッド・ソックスのグレーディー・リトル監督も認める。「あのチーム相手にプレーしていると、なんだか毎回、イチローが打席に立っているような気がしてくるんだ。マリナーズが打順を間違えているんじゃないかと思って、思わずメンバー表を確認してしまったよ。彼は、自分だけで試合を支配できてしまう選手だ。」

この輝かしい連戦の初戦で、現アメリカン・リーグMVPのイチローは、たった一人でレッド・ソックスを止めてみせたのである。

イチローのこの夜の活躍は、カスティーヨから打った平凡なショートゴロから始まった。1塁に向って疾走しているのがイチローであることを意識しすぎたガルシアパーラは、慌てて送球してしまい、一塁手のクラークがジャンプしなければ取れないような球を投げてしまった。クラークが着地した頃には、イチローはもうとっくに塁上を駈け抜けていた。ノーマーにとっては、今シーズン6個目のエラーだった。―“イチローが引き起こしたエラー”である。

「あれだけスピードのある選手が相手だと、守る側には物凄いプレッシャーがかかるんだ。」とリトルは言う。

マクレモアがセンターへのシングル・ヒットで続き、ダブル・スチール敢行後(イチローは3塁へ)には、ブーンがレフトに安打して2点を叩き出した。オルルッドがクラークのグラブを弾くヒットを放つと、ブーンは3塁へ進み、続くキャメロンの犠牲フライでホームインして、シアトルのリードを3−0とした。

マリナーズは、2回にも2点加えたのだが、それの主役もイチローだった。カスティーヨの脚に当てた打球がヒットになると、イチローは今度は1塁のベース上からカスティーヨを悩ませ続けた。その結果、カスティーヨは、マクレモアに対してカウント1ストライク1ボールから絶好球を投げてライトへのホームランを打たれてしまい、点差は5−0へと広がってしまった。その光景をプレス・ボックスから眺めていたレッドソックスのポートGMは、思わず溜息をついた。ポートがエンゼルスにいた頃に、1982年のドラフトで選んだ選手が、マクレモアだったのだ。

カスティーヨは、イチローの存在が、マクレモアへの投球に影響を及ぼしたことを認めた。

「彼は、混乱を引き起こす選手だ。」とカスティーヨは言う。「(彼のせいで)マクレモアに失投してしまい、それをうまく打たれてしまった。あれが試合を決めた。イチローが1塁に出ると、こっちは落ちつかなくなるんだよ。」

レッドソックスは、4回にニクソンがヒットを打ってガルシアパーラをホームインさせ、ようやくピネイロから2点目をもぎ取ることに成功した。

だが、そこでまた「イチローのショータイム」が始まる。彼は、8本のファウルを打ち、合計13球を投げさせては四球で出塁するという、後世に語り継ぐに値する程の素晴らしい打席をみせたのである。

「そのうち、疲れるかと思っていたんだが、結局、彼が戦いに勝ってしまった。」とリトルは言う。

その後、盗塁を繰り返して3塁まで進んだイチローは、前進守備をとっていた内野の隙をついてシエラが放ったヒットによって、ホームまで帰ってきた。シアトルのリードは、6−2となった。

ローランド・アローホがカスティーヨをリリーフして6回を3者凡退できっちり抑えた。しかし、7回に先頭打者で出てきたイチローが、初球をライト前に弾きかえして3塁打にしてしまった。イチローほどのスピードでホームから3塁まで走れる選手は、メジャーには他にはいない。次打者のマクレモアが直ちに鋭いセンター前ヒットを放って、イチローをホームに帰し、最後の1点を加えたのだった。

(中略)

「我々が(シアトル相手に)どれだけやれるのか、見るのが楽しみだ。」と、リトルは試合前に言っていた。「自分達がどれくらい強いのかを、見てみようじゃないか。今までも、いいプレーはしていた。でも、自分達と同じ位強いチームとやる時は、全力を出し切る必要があるからね。」

マリナーズがレッドソックスの力を見くびっているのではないかという懸念は、マリナーズのピネラ監督がボストンに関する事前の偵察レポートの内容を公表した時点で消滅した。

「我々のスカウトの報告によれば、今年の我々の一番の強敵はボストンである、ということだ。」と、ピネラは試合前の会見で認めたのだ。

レッドソックスのスカウト達がイチローについて書いた偵察レポートには、いったいどんなことが書いてあったのかは、非常に興味のある所である。

                   以上(^^)


[11263] ギーエン選手の復活 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/05/10(Fri) 01:44
体つきも逞しくなり、見違えるように健康そうになったギーエン選手。この数試合の打率は少々下降気味ではありますが、4月中の打撃の好調さ、守備の素晴らしさには、目を見張るものがありました。

昨シーズン末の結核騒動が信じられない程の回復振りですが、一時期は死をも覚悟したというギーエン選手が、昨年の辛い経験を地元紙に語ってくれています。。。

           −・−・−・−・−・−・−・−・−

                  復活
              ― ラリー・ラルー ―
     http://www.tribnet.com/news/top_stories/0507c11.html


昨年、カルロス・ギーエンは、キャリア最高の1シーズン140試合出場を果たしはしたものの、様々な問題に悩まされ続けた。

6月には鼻腔にできた膿瘍のせいか、鼻血が止まらなくなった。7月には発熱や執拗な咳を伴う長風邪を引き込んでしまい、8月には足首を捻挫した。

マリナーズが勝利を重ねていくにつれて、ギーエンのショートの守備も冴えを増し、体重減少と不眠に苦しめられながらも、9月の成績は、それ以前の月のものに少しも引けを取らなかった。

咳がどうしても治まらず、食欲も失った。高熱は出なかったが、微熱が引かなかった。

「チームは勝ち続けていたし、プレーオフに向けてまっしぐらに突き進んでいるところだった。」と彼は言う、「(体の不調は)ただ、疲れているだけなんだろうと思っていた。体力は落ちていったけど、打撃は好調だった。」

9月に入ってからのギーエンの最初の41打席の打率は.439で、26歳の誕生日の5日前の試合には、ホームラン、3塁打、2塁打にシングル2本と、打ちまくった。

だが、その試合後、ギーエンをいっぺんに恐怖に陥れるようなことが起こった。それ以上、黙って一人で我慢していることに耐えられなくなったギーエンは、とうとう、トレーナーのリック・グリフィンの元へ行った。

彼は、今までにも様々な故障に見舞われてきていた。肩の脱臼から始まって、片膝の靭帯断裂、後には、もう一方の膝の靭帯も断裂してしまった。足首の捻挫や靭帯の故障のために、マリナーズに来た最初の2年間は、たったの15試合にしか出場できなかった。

様々の不運を経験してきたギーエンだったが、それでも、今回の恐ろしさは、別格だった。試合で激しく走った後にグランドから引き上げてきたギーエンは、喀血したのだった。

その2日後、肺結核と診断されたギーエンは、シアトル市内の病院に入院した。

入院後も、容態は悪化していった。

「肺から出血しだして、3,000cc近くもの血を失ったんだ。」とギーエンは言う。「医者には、手術をしなくてはダメだ、出血を止めないと死ぬ、と言われた。」

ベネズエラに電話をして、両親に来てくれるように頼んだ。彼らが着くまで、生きていられるようにと願った。

ベネズエラで生まれ育ったギーエンが夢中になってきたものといえば野球であり、英雄と言えば、祖国からメジャーリーグに渡って行った選手達だった。

子供の頃、ギーエンとフレディー・ガルシアは顔馴みだった。初めて試合で対戦した時のことは、2人ともよく覚えている。

「僕が、もう少しでホームランになりそうな大きなファールを打ったんだ。」とギーエンが言う。「当時のフレディーは、誰にも打たせてなるもんか、っていう投手だった。」

―で、どうなったの?
「フレディーに聞いてみて。」とギーエン。

ガルシアの元へ行き、同じ質問をした。―その最初の打席で、一体何が起こったの?? ガルシアは、歯を見せてニヤッと笑った。

「あいつが、でかいファールを打ったんだ。」とガルシアは言う。「―で、オレは、次の1球をあいつの喉元に投げてやった。」

「僕にぶつけようとしたんだぜ。」とギーエンは笑いながら言う。「しかも、2回も―。」

1992年、ギーエンはメジャーに上がる夢を胸に、ヒューストン・アストロスと契約した。1年後、ガルシアも同じチームと契約した。1995年には、2人とも同じマイナーチームに配属され、その後の3年間は、ヒューストンのマイナー組織内を一緒にあちこちと移動した。

1998年、ランディー・ジョンソンをヒューストンへ出した見返りとしてマリナーズが獲得したのは、ギーエン、ガルシアとジョン・ハラマだった。ギーエンにしてもガルシアにしても、それまでメジャーの試合出場経験は全くなかった。

まず、最初にメジャーに昇格したのはギーエンで、その年の9月のことだった。

「自分はやれるんだっていうところを、皆に見せたかった。」とギーエンは言う。

手さばきがうまくて強肩のスイッチヒッターのギーエンは、シアトルに来て最初の10試合で.333を打った。その10試合目となる対オークランド戦で、2塁での守備中にダイビング・キャッチを試みたギーエンは、左膝の靭帯を断裂してしまった。

「信じられなかった…。」とギーエンは言う。「やっとメジャーへ上がれたと思った途端に、怪我をしてしまうなんて―。」

冬の間中、ギーエンは膝のリハビリに励んだ。春季キャンプ時には、他の選手とポジションを争えるまでに回復した。開幕日には、彼もガルシアも勝ち残っていた。

「また、同じチームで一緒にプレーできるようになったんだ。」とギーエン。

開幕して5試合目、本塁近くの挟殺プレーの最中に、今度は右膝の靭帯を断裂した。

またプレー出来るようになるまでには、1年かかった。

ギーエンの選手としての可能性は、時には、いっぺんに花開くように思えた。メジャーでプレーした最初の3シーズンで、彼は2塁、3塁と守り、最後にようやく本来のポジションであるショートへと回された。

相手の投手が為す術もない程、打ちまくる時期があるかと思えば、全く打てない時期が続いたりもした。満塁でのギーエンの生涯打率は、.360もあった。

毎年、ギーエンの足を引っ張ることになったのは、故障だった。

「カルロスが、本当はどれだけできる選手なのかは、彼が(怪我をせずに)1年を通してプレーする所を見せてくれない限り、いつまでたってもわからないよ。」とは、2000年のシーズン中のピネラの言葉だ。

グリフィン・トレーナー曰く、「若い頃のギーエンは、少しの打撲や肩痛なんかでも、絶対にプレーしたがらない選手だった。この商売では、多少の痛みがあっても(我慢して)プレーできるようにならないと、出場機会がなくなっていく。1シーズン162試合を、完璧な状態でプレーしている選手なんて、一人もいやしないんだから―。」

25歳になった昨年、ギーエンは、アレックス・ロドリゲスがテキサスに移籍していったおかげで、とうとう開幕日に先発ショートとして出場することができた。しかし、自分の選手としての評判が、今一つ芳しくないことにも、ギーエンは気付いていた。

“故障が絶えない選手、痛みに弱く、痛みをこらえてプレーできない、もしくはプレーしない選手”というレッテルが、何時の間にか貼られていたのである。

そう言われたくはないという思いから、ギーエンは、鼻血が止まらなくなっても出場し続け、足首を捻挫しても、無理をして早めに復帰した。熱があって咳き込みながらも、黙々とプレーし続けた。

「昨年、カルロスはチーム内で、とても大切な役目を果たしていたんだ。」とブーンは言う。「守備も抜群だったし、打撃面でも、チャンスに非常に強かった。ウチは、チームが一丸となったからこそ、116勝もできたんだけど、カルロスは、そのチームの大きな部分を占めていたんだ。」

―そして、マリナーズが116勝とプレーオフに刻々と近づきつつあった頃、ギーエンはたった一人で病院で横たわっていた。

ホームで試合がある時は、ガルシアが毎日病院に見舞いに来た。ピネラも見舞ったり電話を掛けてきたりした。スタン・ハビエアもしばしば顔を見せた。他のほとんどの選手たちも電話を掛けてきた。

「誰も、結核がどんなものか、よく知らなかったんだ。」とダン・ウィルソンは言う。「チームの皆にとって、かなりのショックだった。本人のカルロスが、一番のショックを受けていたのは、言うまでもないけどね。」

ブーンも言う。「結核についての知識…?? 小児麻痺と同じくらい、誰も何も知らなかったんじゃないかな。だいたい、そんなものにまだ感染する可能性があるなんてことも、俺は知らなかったぐらいなんだから。」

だが、ギーエンは感染してしまったのだ。9月末には、命の心配さえあった。

手術によって、肺からの出血は止まったが、衰弱しきったギーエンには、眠る事と水分を摂ることしかできなかった。

その間もマリナーズは勝ち続けた。

シーズンもあと数日を残すだけという頃、退院を許可されたギーエンは、その足で真っ直ぐにマリナーズのクラブハウスへやって来た。体重がめっきり落ちてしまったため、服はどれもブカブカだった。

「チームの皆の励ましとファンのお陰で、あまり落ち込まないですんだんだ。」とギーエン。

そして―次にギーエンが言ったことは、全員を驚かせた。

「プレーオフには、またプレーできると思う。」

彼の言葉を本気で信じた者は、誰もいなかった。
だが、ギーエンは、その言葉通り、復帰してみせたのである。

シアトルは、ALDSで全5試合をかけてようやくクリーブランドを破ったが、次のALCS用の登録メンバーを発表する段になると、ギーエンの名前をそのリストの中に加えて、世間を驚かせた。

1年間の貢献に対するご褒美…?それとも、ギーエンの機嫌を取るための方策…?

「カルロスがメンバー入りするのは、当然だと思う。」とピネラは答えた。「我々は彼がプレーできる状態にあると判断したし、本人もそう言っている。」

2001年度のALCS第1戦に、ギーエンは出場を果たした。セーフコーフィールドで名前が呼び上げられると、その晩一番の大声援が送られた。

「特別な気持ちになった。」とギーエンは言う。「あの気持ちは、一生、忘れないと思う。」

昨年の10月、ヤンキースはマリナーズを破った。そして、ギーエンは、結核を打ち負かした。

シーズンオフにベネズエラへ帰ったギーエンは、ウィンター・ボールでプレーして、2002年に備えた。

「毎年、同じことばかり繰り返している―“故障さえしなければね”ってヤツ。肩だの、脚だの、結核だの…。もう、そんなのには、あきあきだった。」

自己憐憫とは無縁のギーエンは、結核との戦いを通して自分の人生観が変わった、と言う。

「―病院で死ぬほど怯えていた時、脚のない人や腕のない人を見かけた。そういうのを見てしまうと、もう今までと同じようには、世の中が見られなくなる。色んなことの有り難さが、身に染みるようになるんだ。」

野球にしても、そうだ。今年の春、ギーエンは充分準備ができていることを証明し、4月には打率.305、3本塁打、21打点を記録して、マリナーズの22勝9敗のスタートに大きく貢献した。

グリフィン・トレーナーは、もう既に、ギーエンのある変化に気付いている。

「ニューヨークで、膝の内側に自打球を当てて、酷い痣を作ってしまったんだ。かなり痛かったはずだ。」とグリフィンは言う。「数年前なら、そんな日の翌日は、絶対プレーできなかった。今年はどうだったかって―? 翌日も、翌々日も、ちゃんとプレーしていたよ。」

「彼は、ようやく、痛みとうまく付き合う方法を覚えたんだと思う。どういう時にはプレーしても大丈夫で、どういう時には休んだ方がいいのかが、わかってきたんだ。」

ギーエンは、その見方に頷く。

「前より、タフになった。」と彼は言う。「今年は、野球だけに集中できるから、また野球を楽しめるようになったんだ。去年は、なんで体の具合が悪いのかがわからなかったし、自分は死ぬんじゃないかと思って、怖くて仕方がなかった。今年は、野球のことだけ考えていられる。」

マリナーズは、今年もまた勝ち進んでいる。そして、ギーエンもその中にいる。だがギーエンは、今年はその野球に対しても、バランスのとれた捉えかたが出来るようになった、と言う。

―勝利よりも大切なことって、なんだと思う?

「生きることさ。」と彼は、答えた。


                                  以上(^^)

[11213] シエラ選手の思い 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/05/07(Tue) 11:09
ヤンキースに2年連続でリーグ優勝を阻まれている経緯から、マリナーズの選手達全員にとっても、ヤンキースと言うチームは他とは違う相手なのでしょうが、元ヤンキースだったピネラ監督やネルソン投手にとっては、より一層の負けじ魂を刺激されてしまう宿敵であることは確かなようですネ。^^;

打席での澄んだ眼差しと静かな威圧感、そしてそこから繰り出される破壊力満点のバットスイングと闘志溢れる走塁が,なんとも魅力的なシエラ選手ですが(>…ね、ななかまどさん♪^^)、その彼のヤンキース戦における大活躍の陰にも、実はヤンキースとトーレ監督に対する彼独自の特別な燃える思いがあったようです。。。


       シエラ、ニューヨークでの辛い過去をバットで打ち払う
           ― ラリー・ストーン ―

http://seattletimes.nwsource.com/html/mariners/134449154_stone06.html


ルービン・シエラは、1996年のヤンキースのワールドシリーズ・リングを持っている。しかし、その指輪は、思い出したくもない過去の象徴として、引出しの奥深くにしまい込まれたままだ。

あれは、ひょっとして別人だったのでは?…と疑いたくなるほど、1996年当時のシエラは、今とは違って、球界全体の嫌われ者になりつつあった。とてもじゃないが、昨日、ヤンキースタジアムでホームラン1本を含む3本ものヒットを打って打率をALトップの.371まで上げた男と同一人物だとは思えないのだ。昨日、マリナーズが10−6で対ヤンキース戦3連勝の最後を飾った後に、ピネラ監督が「ルービンは、ウチのチームではなんの問題もなく周りとなじんでいるよ。」と形容した男と同じ人物だとは、どうしても思えないのである。

「1996年にニューヨークにいた頃のシエラは、いろいろな問題を抱えていた」という言い方は、生ぬる過ぎる表現であると言われても仕方がないだろう。その年はジョー・トーレがヤンキースの監督として輝き始めた最初の年であり、二人は一番最初の出会いから衝突を繰り返し続けた。シエラは、出場時間の短さに対する不満から塞ぎ込み、おおっぴらにトーレを嘘つき呼ばわりしたりした。

7月には、シエラはセシル・フィルダーとの交換トレードでデトロイトへと追放され、その年のワールドシリーズでヤンキースがアトランタを破った頃には、ほとんど忘れ去られた存在になっていた。そこからのシエラのキャリアは転落の一途をたどり、最後には独立リーグのアトランチック・シティーを経由してメキシコ・リーグのカンクーンに行かざるを得なくなるまで堕ちて行った。

1997年に出版されたトーレの自叙伝「夢を追って」(Chasing the Dream)の中で、トーレは遠慮会釈なくシエラに対する個人攻撃を繰り出している。ヤンキースのボブ・ワトソンGMに向かって「シエラを追い出してくれ」と自ら要求した話や、シエラに“嘘つき”となじられても、「その言葉の出所を考えれば、ほとんど気にすることもなかった」こと、また自分が監督として出会った選手の中で、シエラが「最も手におえない選手」であり、「ただの我侭なガキ」だと思ったことなどが、歯に衣を着せぬ形で綴られていた。

キャリアの転落によって自尊心を打ち砕かれ、数々の失敗のおかげでより賢明になった現在の自分を、シエラは「違う人間になった」と言う。過剰なウエイトリフティングと間違った食生活のせいで野球に不向きな程体を大きくし過ぎてしまったことも、その失敗の一つだった。今ではトーレとも、また、シエラのことを「誰もが認める間抜け野郎」(village idiot)と罵倒したオークランド時代の監督、トニー・ラルーサとも和解を果たしている。

「僕がインディアンスをクビになる直前の、2000年の春季キャンプ中に、ジョー・トーレには直接謝った。」とシエラは言う。「彼とハグし合って和解したんだ。もっといい関係が築けたはずだったのに、って彼も言ってくれた。でも、あの一連の経験のお陰で、今の僕があるようなものさ。」

そして今現在の彼は、昨年のテキサスでのカムバックが決して幻ではなかったことを、日々、周囲に見せつけている。エドガー・マルチネスの手術後に、彼がマリナーズの大黒柱として頭角を現したことは、まさに天からの賜物に他ならない。ピネラが「選手達は、これ以上ないというほどの素晴らしい戦い振りを見せてくれた」と語った昨日の試合の中で、シエラは決定的なヒットを2本も放って勝利に大きく貢献した。

3回表のウエルズに対し、シエラは2死1、2塁からヒットを放って2点を叩き出し、マリナーズのリードを2−1から4−1まで拡げた。そして、マリナーズが6−2でリードしていた7回表には、ラミロ・メンドーザからさらに2点本塁打を放って、決定的なダメージをヤンキースに与えたのだった。

「最初に注目を浴び始めた頃のルーベンは、全身からスーパースターのオーラを発していたものだった。」とピネラは言う。「その後の凋落の原因が何だったのかは、私には良くわからない。体が大きくなり過ぎてしまったせいなのか、あるいは他に別の理由があったのか…。いずれにしても、ああいう経験をすると、人間は謙虚になるものだ。メキシコ・リーグにまで堕ちていくのは、彼にとっては大変なことだったに違いない。でも見上げたことに、彼はそこでめげることなく、頑張ってまた一番上まで這い上がってきたんだ。しかも、昔以上にいい選手になってね。―いい話だと思うよ。」

そして、その話の続きは、もっと良くなりそうな気配もある。今現在首位打者の座にいるシエラは、正真正銘のオールスター候補にのし上がっていきそうな勢いなのである。―そして、そのオールスター戦の控え選手を選ぶ立場にいるのは、一体誰かといえば…そう、昨年度のア・リーグ優勝チームの監督だったジョー・トーレ、その人なのである。

今年36歳のシエラは、今まで4回オールスターに選出されたことがあるが、一番最近でも1994年のことで、その頃の彼は、自由自在に打ちまくる正真正銘のスラッガーとして、将来の殿堂入りを確実視されていた。

「(もし今年選ばれれば)自分にとっては大きなことだ。また、以前のようなスーパースターになれる自信はある。」とシエラは言う。「僕はまだ若いし、走れるし、打てる。体の手入れもしっかりやっている。昔は若気の至りから、そのやり方がわからずに失敗してしまった。なんでもかんでも食べて体重を増やしすぎてしまったし、ウエイトリフティングもやり過ぎてしまった。間違ったことばかりやって、自分自身の首を締めてしまったんだ。」

トーレは、どうやら昔のことを根に持ってはいないようである。先週シアトルで、トーレは昔のシエラとの関係について語り、最近の素晴らしいシエラの活躍を嬉しく思っている、とも言った。

「とにかく、お互い、ウマが合わなかったんだ。」とトーレは言う。「あれ以来、シエラはいろんな事を考え直したんだと思う。ウチにいた頃のシエラは、チームのことよりも自分のことを最優先している事が多いように私には思えたんだ。そのことについてお互い話はしたが、これは私の見方に過ぎないんであって、必ずしも真実であるとは限らないんだけどね。」

“生まれ変わったシエラ”は、昨日「マルチネスが復帰してきたら自分はどうなると思う?」と報道陣に聞かれた。マルチネスは今月末にもDHとして復帰する見込みで、そうなれば、当然シエラの出場時間も減少すると思われるからだ。今までの活躍で、毎日プレーする権利は当然保証されるべきだと、自分では思っているのだろうか―?

昔なら間違いなく問題発言を引き出していたであろう質問だったが、今のシエラは、賢明にも引っかかっては来なかった。

「その質問は、僕には答えられないな。」と彼は穏やかに言う。「自分は、チームが最善と思う決定に従うだけだから。彼らの言う通りにすることになると思うよ。」

だが、そこで一瞬言葉を切ったシエラは、ニッコリと微笑むと,こう付け加えたのだ―「でもね、僕自身は、190試合でも出場する用意はあるんだけどね。」

                      以上(^^)

[10969] A−Rodに対するブーイングの理由 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/04/21(Sun) 23:28
(ちょっと、場所を取る暇ネタです。予め、お詫び申し上げます。m(__)mm(__)m)

昨年ほどではなかったとはいえ、今回も派手なブーイングがアレックス・ロドリゲスに浴びせられていました。ロドリゲスがシアトルのファンからここまでの扱いを受けるのは、単に彼が高い契約金に惹かれて移籍して行ったから―だけではないようです。シアトル・ポストのファン・フォーラムによれば、シアトルのファン達が、ジョンソンとグリフィーは許せても、ロドリゲスだけは許せない、と感じる一番の理由は、「彼は嘘をついて自分達ファンを騙したから―」という事のようです。

金のための移籍なら、最初から正直にそう言えばよかったものを、彼は「金額は自分にとっては、問題ではなかった。テキサスを選んだのは、優勝を狙えるチームに行きたかったからだ」などと答えてしまいました。その直後に、目の玉の飛び出るような破格の契約内容が公表されてしまい、彼の“嘘”がバレてしまう形になりました。さらには記事の中にもあるように、「僕は自分の将来を開くために、シアトルからダラスに移ることにしました。御社もそうすることがいいのでは―?」などという内容の、ボーイング社をダラスに誘致する手紙にサインをした、と報道されたことも、ファンのロドリゲスに対する不信感を一層増幅させてしまいました。個人として見ればとても“優しくていい人”らしいのですが、その後もアレックスは、「シアトルの町とチームは、今でも僕にとっては最愛の場所だ」等々の“きれいごと”を事あるごとにマスコミに繰り返したため、そうでなくても裏切られたと感じていたシアトルのファンの感情をさらに逆なでする結果となり、例を見ない程の凄まじいブーイングの対象となってしまったものと思われます。(←よく地元のファンが引き合いに出す例え話は、“金に目がくらんで他の女のもとへ走っておきながら、「僕が本当に愛していたのは、君だけなんだ」などと見え透いた嘘を言って、自分が捨てた恋人の気をも引こうとする最低な男”というものです^^;)


下記は、今回のレンジャース戦の前に、シアトル・タイムスに載ったコラム記事です。「ブーイングは止めよう」などと書きながらも、実際は、かなりアレックスに対して辛辣な内容になっています。^^; 

      
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      シアトルのファンよ、もういい加減AーRodはそっとしておこう
             ― ラリー・ストーン ―
http://seattletimes.nwsource.com/html/mariners/134439268_ston19.html

「A−Fraud」(インチキA−Rod)と書いたポスターは、もう下ろそう。その玩具のドル札も引き出しにしまいなさい。喉も休ませた方がいい。

今週末、アレックス・ロドリゲスがやって来ても、もう辛く当たるのはやめよう。彼はもう、充分に辛い目にあっている。レンジャースのブルペンを見たことがあるかい?自分のチームがあんな酷い状態にある気の毒な男を、この上、さらに蹴飛ばす必要はないだろう。

彼をブーイングするって?むしろ、抱き締めてやるべきなんじゃないか?昨年の4月にA−Rodに向けられたあの惨憺たる“歓迎”を繰り返す必要はない。あれより酷い目に遭ったのは、アカデミー主演女優賞を受賞したハル・バリーにお祝いの電話を掛けた(A’sの)デイビッド・ジャスティスだけだろう。(注:ジャスティスはハル・バリーの前夫。彼の暴力が原因で離婚したと言われているので、もしほんとうに「おめでとう電話」などしていたとしたら、バリーの反応は想像がつきそうな気が…^^;)チームの順位表を見たかい?弱い相手に対してかさにかかるのは、みっともないものだ。

―大丈夫、皆の言いたい事は、もう充分に彼に伝わっている。マリナーズのファンは、3人目のスーパースターを失ったことに対する苛立ちをぶつけたかった―シアトルは、またもや“恋人”にふられて捨てられてしまったのだった。ランディー・ジョンソンは、契約の揉め事で出て行った。ケン・グリフィー・ジュニアーは、家族のもとに帰りたいからと去って行った。そして、最後のA−Rodは、ファンにとって一番こたえる去り方をした―大金を引っ掴んで、テキサスへと一目散に逃げて行ったのだ。…ま、でも、精神状態の正常な人間なら、誰しも彼と同じことをしたには違いないんだろうが…。

ここで忘れてはいけないのは、昨年、テキサスが初めてセーフコーにやって来た頃は、両チームがその後どういう運命を辿ることになるのかは、また霧に包まれてはっきり見えない状態だった―ということだ。マリナーズは9勝3敗の好スタートを切ってはいたが、その先の信じ難いような大成功を予見していた者は、その段階ではまだ誰もいなかった。ブレット・ブーンは、まだただの“渡り鳥”だったし、イチローも、“ちょっと肩が良くて、当て打ちのうまい謎めいた選手”の域を出てはいなかった。

かたや、レンジャースは7勝6敗で、まだAL西地区の首位からそう離れてはいなかった。シアトルのファン達が、AーRodこそが、これから先の春から夏にかけての間に、両チームの力関係を逆転する決定的な働きをする駒になるかもしれない―と危惧したとしても不思議はなかった。彼の離反がもたらした痛みはまだ生々しかったし、“傷口に塩をすり込む”という言葉があるが、「252」という数字―彼が獲得した契約の総額、2億5千2百万ドル―は、まさに、シアトルのファンの傷口に押し込まれた“塩ピーナッツ”程にもに感じられたのだ。さらには、シアトルに本拠地を構えるボーイング社をダラスに誘致する目的で、ダラスの地元有力者達が連名で書いた移転を勧める手紙に、ロドリゲスが軽率にも賛同人の一人として署名をしてしまった事実も、彼の立場を益々悪くしてしまった。

―ということで、あの日、セーフコーを満杯にしたシアトルのファンは、球場が定めている「行動規範」を守るようにと事前にきつく言い渡されていたにもかかわらず、シアトルのスポーツ史上、稀に見る程の強烈な憎悪を表明して見せたのだった。あるファンは、ネクスト・バッターズ・サークルに立ったロドリゲスのすぐ背後で、釣り竿に結んだドル紙幣をヒラヒラと揺らせて、からかったりもした。“反アレックス”のプラカードや垂れ幕が球場中を埋め尽くし、彼の一挙一動は地鳴りのようなブーイングを引き起こした。

立派なことに、ロドリゲス本人は、意を決したかのように正道を守った。初戦前のインタビューで、彼はマリナーズに対する称賛の言葉を、これでもかというほどに、積み上げたのだ。彼の「僕は、以前からずっと、マリナーズは110勝でも115勝でもできるチームだと思っていた。」という発言は、当時は単なるおべんちゃらにしか聞こえなかったものだが、結果的には、彼は驚くべき先見の明を発揮していたことになる。

試合後、ファンに対して反撃することもできたのだが、かわりに彼が言ったのは、「凄い歓迎のされかただと思ったよ。これ以上ないぐらいのね。」だった。―ただ、その虚ろなまなざしと呆然とした態度に、彼の本心は見て取れた。

ロドリゲスとレンジャースは、6月に再び戻って来た。その頃には既に真実がはっきりとしてきていたにもかかわらず、相変わらず耳をつんざくようなブーイングが執拗に繰り出された。マリナーズが史上3番目の好スタートを切ったことは今や明らかだったし、かたや、レンジャースが悲惨な投手陣のおかげで沈滞状態に陥っているのも明らかだった。にもかかわらず、万が一ロドリゲスが鈍感で、前回来た時に気付いていなかったら困るとでも思ったのか、球場につめかけたシアトルのファンは、自分達の思いのたけを、再度、ロドリゲスに向かって声高にぶつけ続けた。

次にロドリゲスがシアトルを訪れたのは、7月のオールスターゲームだったが、その時には、ファンの敵意はかなり薄らいでいた。もうその頃には、マリナーズがプレーオフと歴史的快挙に向かって邁進していたのは誰の目にも明らかだったし、レンジャーズはといえば、「最下位」という泥沼にはまって抜け出せないでいた。オールスターゲームという事で客筋がいつもと違っていたのも確かだが、ホームラン競争でも、その後の試合でショートのポジションをカル・リプケン・ジュニアーに譲るという思いやりのある態度を見せた時にも、声援の方がブーイングを上回っていた。

「アレックスに関しては、もうそろそろ、済んだことは済んだこととして忘れてもいいんじゃないかな。」とピネラはオールスターゲーム中に記者達に向かって言った。「シアトルは、アレックスを暖かく迎えるべきだと思うよ。ここにいた6年の間に、彼はチームに大きな貢献をしてくれたんだからね。ファンが傷ついたのは確かだろうが、その痛みももう、消えるはずだ。」

10月に、シーズンの締めくくりとしてテキサスが最後の遠征にやって来た時には、もうシアトルのファンは寛大に振舞えるだけの充分な余裕を手に入れていた。シアトルは史上最高のシーズンに最後の仕上げの一筆を加える段階に到達していたし、テキサスは43ゲーム差の最下位にいて、トボトボと家路につこうとしているところだった。今回は、声援の方がヤジを完全に抑えていた。

ロドリゲスにとっては、自分の抜けたマリナーズが悠々と116勝を挙げるのを眺めているだけで充分につらいはずだということに、ファンも気付いたに違いない。彼の打った52本のホームランも135打点も、テキサスを救うことはできなかったのだ。明らかに、2億5千2百万ドルという大金は、“つらさを癒す”という面では、かなりの効果を発揮するに違いないが、だがしかし、カネでクローザーは買えはしない。

―いや、厳密に言えば、買えるはずなのだ。だが、レンジャースの場合は、ここで説明するには複雑過ぎる事情によって、今や伊良部がその役目に就いている。その前にクローザーを勤めていたロッカーは、またもや彼お得意の自滅劇を演じて、消えてしまったのである。

そして、今、ロドリゲスは、毎朝、新聞を開いて順位表に目をやるたびに、厳しい現実を目にせざるを得ない。この冬のオフの間に、ジョン・ハートGMが憑かれたように補強に勤しんだにもかかわらず、レンジャースというチームは相変わらずメチャクチャな状態のままだ。一方、マリナーズは、今年も大傑作としての輝かしい光りを放っている。

―アレックス・ロドリゲスをブーイングするって?そんなことをするよりも、むしろシアトルのファンは、最後に笑うのは自分達なんだと言う事実を、充分に楽しむべきであろう。

                      (以上)(^^)

[10924] A’sのマリナーズ評 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/04/19(Fri) 12:38
A’sの公式HPより、オークランド側から見た昨日の試合の感想です。 長年、マリナーズに対しては優越感を抱いて来た彼らが、本当にマリナーズやイチロー選手に一目置くようになったのか、はたまた、宿敵を油断させるための単なる“誉め殺し”^^;に過ぎないのかは、ちょっと定かではありませんが、ま、どっちにしても、悪い気はしないですよネ。(^^)  (所々、省略しています。ご了承下さい。m(__)m。)

     −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−
     A's:シアトルに感服はするが、屈服はしない
         ― マイケル・アーバン ―
http://oakland.athletics.mlb.com/NASApp/mlb/oak/news/oak_news.jsp?ymd=20020418&content_id=10724&vkey=news_oak&fext=.jsp


マリナーズに連敗し、4ゲーム半離されてしまったとはいえ、A'sは決して参ってはいなかった。

確かに試合後、A'sの選手達の口数は少なかったし、相手に敬意を表していたし、感心もしていた。―だが、意気消沈していたかといえば、そんなことはない。

「ウチだって、たまには連敗もするだろうさ。」とハウ監督は言う。「シーズンが始まって、まだたったの2週間だよ、まったく。」

―実際は2週間半なんだが、ま、この際、細かい事は言わない事にして…。この2連戦で、絶好調のマリナーズを目の当たりにしたA’sは、敵の優秀さを素直に認めながらも、済んだ事は済んだ事―と割り切ってもいるようだった。

敗戦投手となったハドソン投手も、完璧なロードを締めくくった昨晩のマリナーズの戦い振りに称賛の声を贈った一人だ。ハドソンによれば、いい球を投げていたにもかかわらず、今期初の負けを喫してしまったのだと言う。マリナーズは、チャンスを確実にものにする打撃と、安定したリリーフピッチングで、7−4の勝利をガッチリと確保してみせた。

「あれがシアトルというチームさ―試合中、ずっと相手チームにプレッシャーをかけ続けることが出来るんだ。」とハドソンは言う。「とにかく攻撃力が凄い。こっちの調子がよくて、主導権を握ったと思ってても、彼らはお構いなしに得点してくるんだ。」

―だからと言って、ワイルドカード狙いに目標を下げるつもりなはい、とハドソンは言う。まだまだ、それには早過ぎる。「ウチもいいチームだよ。マリナーズと対等に渡り合えるチームだと思っている。」

マリナーズの勝利を決定付ける走者一掃の2塁打を、8回にイチローに打たれてしまったホルツ投手も、ハドソンと同意見だ。

「野球には、好・不調の波がつきものだからね。」とホルツは言う。「ウチのチームだって地力はあるんだから、彼らと同じ(高い)レベルで、充分プレーできると思っている。ただ、この2〜3試合に限っては、それができていないだけだ。」

この10試合、シアトルと同じレベルでプレーできたチームは、一つも無い。ロードでのマリナーズの成功の鍵はなんなんだろうか、と聞かれたハウ監督は、次のように即答した:

「彼らは、“相手の弱点を見つけるとそれを徹底的に突いて止めを刺すという闘争本能”(=killer instinct)というヤツを持っているのさ。こっちがちょっとでもミスをすれば、即やられちまう。今日の試合はまさにそれだった。マリナーズに弱点は無いよ。」

先日のエドガー・マルチネスの怪我が、ある意味、マリナーズのアキレス腱を露呈した形になったと言えるのかも―とハドソンは言う。しかし、マリナーズは、マルチネスが戦線離脱したこの1週間以上の間、負け知らずで来ているのだ。

「エドガーが抜ければ、普通は、対戦相手にとって戦い易くなると思うじゃないか。」とハドソンは言う。「―でも、エドガーの離脱をきっかけに、彼らは戦闘モードのギアを、さらに一段上げてしまったんだよね。」

確かに、マルチネスの怪我は、シアトルの何かに火を付ける結果となったようだ。―そして、その“何か”とは、ジェフ・シリーロ、その人である。オフの間にトレードでシアトルにやって来たシリーロは、ホームでの開幕6連戦ではわずか21打数3安打だったのが、その後のロードでは34打数11安打を記録している。水曜の試合でも、2本のヒット―そのうち一本は、試合をひっくり返す決定的な1本―を放っている。

6回表2死で3−3、ランナー2塁の場面で、ハウ監督はイチローを敬遠する策を取った。だが、続くシリーロにハドソンのチェンジアップをライト方向に持って行かれてマリナーズに先行を許し、2イニング後には、イチローに完全に止めを刺されてしまったのだった。

「シローロに対しては、お見事でしたって、素直に認めるしかない。彼はきちんと役目を果たしたんだからね。」とハウは言う。「―でも、我々は、何度だってまたシリーロと勝負する方を選ぶだろうね。イチローはなんてったって、メジャーで最も手強い打者の一人なんだから。...シリーロにやられても、それはもう、仕方のないこととして諦められる。でも、もし、あんな場面でイチローに打たせてたりしたら、私自身の正気が疑われてしまうよ。」

勿論、これがマリナーズの強さの原因の一つでもある―上位から下位まで、彼らの打線には、ほとんど切れ目というものが見あたらないのだ。

「―全員がまんべなく打つんだよな。」とホルツが言う。

「彼らに対しては、絶対に気を抜くことが出来ないんだ。」とハドソンも付け加える。

一方、ハウ監督は、まわりが自軍のこの一時的な失速を心配して騒ぐのを、いい加減やめて欲しいと思っているようだった。確かにA’sは、ここ7試合で5敗もしてはいる。だがそれでも、26試合目にやっと今(15試合目)と同じ勝ち数を上げた昨年に較べれば、まだまだ余裕があるのである。

「心配しなくても、ウチは大丈夫だよ。」とハウは言う。「ちゃんとやっているし、まだまだ、パワー全開モードからは、ほど遠い状態でプレーしているんだからね。」

                         (以上)(^^)

[10573] 25人ロスターとギプソン選手の記事 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/03/30(Sat) 23:11
イチロー選手の華やかな話題で賑わう中、天邪鬼に、ちょっと地味な話題を…。^^;

正式発表はまだですが、各紙の記事によれば、開幕に向けたマリナーズの25人ロスターが事実上決定したようです。野手の最後の2人の枠を争っていたギプソン・アリアス・ウゲットの3人ですが、どうやらギプソンとウゲットが最終的に残ったようです。(漏れたアリアスの処遇がどうなるのかは、今のところ不明。)

ウゲットは、先日騒動蒙城さんが説明してくださった通り、『ルールVドラフト』で獲得した選手なので、残したからには、シーズン中ずっとメジャーのベンチに入れておかなくてはなりません。(どうにかしてマイナーに置いておけないものかと、ギリックGMがもとのチームのマーリンズと交渉してみたようですが、ダメだったそうです…。)どうもウゲット残留はフロントの決定だったようで、ピネラ監督としては、未熟でイザという時にはまだ役に立ちそうにないウゲットよりも、ベテランでピンチヒッターとしても実績のあるアリアスの方を残したかったようです。ウゲットのことを聞かれたピネラ監督、「彼は、本当はまだ、2Aあたりで毎日プレーすべきなんだ。今、ここに残っても、彼の出番はほとんどない。ベンチで私の隣にずっと座って過ごすことになるんじゃないかな。」と、思いの他不機嫌な口調で答えて、記者達をちょっとビックリさせたそうです。^^;

…で、ギプソン選手ですが、春季キャンプ中に打撃・守備ともに大奮闘した甲斐あって、今年もなんとかメジャーに残ることが出来たようです。(^^) 1991年のドラフトで63順目にようやくマリナーズに指名されたギプソン選手。そのプロ生活は、決して楽なものではないようです―。

       −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

       絶えずプレッシャーと背中合わせの男、ギプソン
        ― スティーブ・ケリー(コラムニスト) ― 
  http://seattletimes.nwsource.com/html/mariners/134428099_kell29.html


プロの野球選手として迎えた最初の朝、ギプソンは心地よい高揚感と緊張感で目覚めた。さあ、いよいよだ―。大リーグへの最初の一歩を踏み出す日。大観衆、チームの命運の掛かった大事な試合。輝かしいキャリアのスタートのはずだった。

「―ところが、俺の派遣された所というのは、テンペの埃っぽい古ぼけた球場だったんだ。」とギプソンは言う。「契約の時に、スカウト(ケン・コンプトン)がお決まりの景気のいい話を散々してくれた―『2〜3年もすれば、すぐにメジャーだ』ってね。で、勇んでグラウンドに走り出てみりゃ、試合を見てくれるファンなんて一人もいやしない。周りは、なんにもないド田舎。風がビュービュー吹いていて、埃が舞い上がっていて、気温は38℃もあった。」

「―あれが、俺達新人が、無邪気な子供から大人になった瞬間だった。」

「自分達が想像していたのとは全然違う世界なんだ、っていう事に気付いたんだ。自分達を見に来てくれる30,000人のファンなんてのは、どこにもいない―それどころか、観客は100人だっていやしない。スカウトも来ない。なんてったて、“ルーキー・ボール”だったからね。これより下はない、っていう所だ。」

ギプソンは否応なく“謙虚さ”というものを覚えた。メジャーリーガーになるためには、いかに大きな代償を払わなくてはならないかを学んだのだ。そこから、長くて辛い旅が始まった。

どのポジションでもこなせる選手・ギプソンは、マリナーズでは永遠に25番目の選手である。これは、スポーツ界でも、最も居心地の悪い身分の一つであろう。ロスターに残れるかどうかは、監督の思惑次第。時には、何週間もじっとベンチに座って、ただひたすらチャンスが来るのを待たなくてはならない。ピンチランナーとして、または競った試合での9回のレフトの守備固めとして―。あるいは、ベテランのレギュラー選手を休ませるために、稀で貴重な先発機会が巡ってくるのを、じっと待っていなくてはならないのだ。

ギプソンは、ロスター上では最後の選手だ。彼にとって確かな事は、自分の身分の不安定さだけである。彼の野球人生は、まさに“その日暮らし”。絶えず緊張を強いられながら、派手さと自信に満ち溢れたメジャーの世界の中で、じっと屈辱感に耐えて生きていかなくてはならない。

「ここ数年間、俺が経験してきたような立場にいると、プレッシャーは四六時中、感じる。」とギプソンは言う。「でも、ある意味、もう慣れっこになってしまった。俺は、マリナーズの組織の中で、ずっとそういうふうにして育ってきたからね。自分を取り巻くプレッシャーに対して、鈍感になってきてしまったのかもしれない。」

「―だって、ずっとプレッシャーばかり気にして、自分はどうなるんだろうか…?とか、フロントはいったい何を考えているんだろうか…?なんて事ばかり考えていたら、自分の首を絞めることになりかねないからね。」

「俺の信念はこうだ。子供の頃みたいに、グラウンドに飛び出して行って、泥んこになりながら、ただひたすら野球を楽しんでプレーしていれば、きっと何かいい事が起こるに違いない、って信じることだ。」

ギプソンは、今まさに、“いい人には、いい事が起こる”という格言の典型になろうとしている。何か突発的な事でも起こらない限り、彼は今年もマリナーズのロスターに載ったまま新シーズンを迎えることが出来そうなのだ。今までに、メジャー登録で過ごした日数は2年と147日。その一日一日が、ギプソンにとってはかけがえのない日々だった。

ギプソンという選手は、自分の幸運さを決して忘れない男で、まるでリトルリーグのワールドシリーズに出場する子供のように、毎日、興奮してワクワクしながら球場にやってくる。そういう男の周りにいるのは、非常に気持ちのいいものだ。

「全てが楽しくて仕方がないんだ。」とギプソンはいう。「ユニフォームに着替えること。ソックスを履くこと。バットに松脂を塗ること。エドガーがスイングするのを見ていること。グリフィーがいた頃には、グリフィーと一緒にプレーすること。そして、ランディー(ジョンソン)とアレックス・ロドリゲス―。1998年の開幕戦で、ランディーと一緒にプレーすることが出来た。色んな経験をしてきたけど、何ものにもかえ難いことが、沢山あった。」

「メジャーのユニフォームに袖を通して毎日グラウンドに立てるだけで、全てが報われる気がする。開幕戦の晩、自分の名前が場内アナウンスされると、マジで、体中に震えが走るんだ。まるで、クリスマスに玩具をもらう小さな子供になった気分だよ。おいおい、お前は29歳なんだぞ、って自分に言い聞かせなくちゃならない時もあるぐらいなんだ。」

いいチームには、必ずチャールス・ギプソンのような選手が一人はいるものだ。レフト、サード、センター、セカンド、ショート。どこでもいい、言ってくれれば守ってみせる(しかも、実に巧みに)、という選手が―。

今週初めのある試合前、ピネラ監督がギプソンに向かってロスターカットの日が近いことを口にした。「今日、何か凄いことをすれば、君の立場がぐっと有利になるんじゃないかな―?」とピネラは、冗談ぽく言った。

ギプソンは監督のその言葉に従って、その試合で見事にメジャーでの初ホームランを打ってみせた。

「必要とあらば、どんなことでもする。ルーキーボールでは、外野手が12人もいたもんだから、皆で打席を融通しあわなくてはならなかった。一試合で1打席しか回ってこない、なんてこともしょっちゅうだった。」とギプソンは言う。「俺は、とにかく毎日プレーしたくてプロになった。だから、ある日、ショートが怪我でプレーできなくなって、『誰か、ショートをやりたいヤツはいないか?』って聞かれたとき、『ショートのやり方はわからないけど、やってみる。』って言ったんだ。」

「ショートに移ったおかげで、打席に立てるようになった。それを見た首脳陣が、俺をあちこちのポジションでプレーさせることにしたんだ。俺は、グラブは2種類しか持ってない―内野用と外野用だけだ。俺が思うに、手に何をはめようが、そんなことはどうでもいいこと―。球が取れさえすれば、いいんだよ。」

テンペの埃まみれの時代からメジャーの華やかな世界に身を置く現在に至るまで、チャールス・ギプソンという選手は、「生き残るためなら、なんなりと全てやってみせる」と思いながら、毎日毎日を過ごしているのである―。
                                                                       (以上)(^^)

[10508] 田口選手の記事 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/03/25(Mon) 01:06
もう既に立派にステータスを確立しているイチロー選手の場合は、多少の好・不調の波があったとしても、あまり心配しなくてもいいのでは、と個人的には思っています。でも、田口選手の場合は、残念ながらそうも言っていられない段階に来ているようです。下記の記事が、地元のセント・ルイス・ポスト・ディスパッチ紙に載っていました。最後に、どんでん返しがあるといいのですが…。(-_-;)

           −・−・−・−・−・−・−・−
        田口、メンフィス行きが濃厚、との通達を受ける
           ― ジョー・ストラウス ―
http://home.post-dispatch.com/channel/pdweb.nsf/TodaySunday/86256A0E0068FE5086256B86003B0056?OpenDocument&PubWrapper=Sports

土曜日に、カージナルスは、すでに明白になりつつあった事実を田口に告げた。彼の近い将来の所属が、取り敢えずはセント・ルイスではなく、3Aのメンフィスになりそうだ―ということだ。

試合前のダッグアウトで、トニー・ラルーサ監督は、かなり長い時間をかけて田口とじっくり話し合い、この通達を行った。日本の元オールスター選手は、これを聞いてビックリした様子でも、怒った様子でもなかったという。

ラルーサの通達について聞かれた田口は、「皆さんがそうなるんじゃないかな、と思っていたとおりです。」と答えた。

田口は、このキャンプ中、ずっと打撃不振に苦しんできた。土曜日の2打数1安打で、打率は.135(37打数5安打)に上がったが、本塁打・得点・打点は、それぞれ0・3・1に留まっている。

「彼に、今現在の状況を説明したんだ。」とラルーサは言う。「自分の立場を知っておいた方がいいと思ってね。その後のことは、彼次第だ。」

日本のパシフィック・リーグのオリックス・ブルーウェーブでは、優秀な守備を誇りライン・ドライブを得意とする打者だった田口だが、こちらに来てからは、初めて見る投手達の投げる球に歯が立たないように見える場面が目立った。

それ以外にも、彼は色々な新しい慣習に慣れなくてはならなかった。そのひとつが、こちらでは“自分から積極的に打撃コーチや監督にアプローチして助言を仰いだりコミュニケーションを取らなくてはならない”ということで、これは日本のプロ野球ではタブーだったことだ。したがって、土曜日のこの会話が、この春ラルーサと田口が長時間話し合った初めての機会であり、この45分間の会話は、双方にとって非常に啓発的なものとなったようだ。

「もしキャンプが今日終了したとしたら、彼は残れないだろう、ということを伝えた。」と、ジョケッティーGMは言う。「今日明日中にさらにスタッフと話し合いを重ねて、他の何人かの選手たちの事も含めて、最終的にどうするか決めるつもりだ。」

(中略:ここで契約内容の説明。マイナー落ちの場合、田口選手はそれを拒否して帰国する権利を持っている。)

「僕は(アメリカに)残って、やり通すつもりでいる。」と田口は通訳を通して語った。「僕はセント・ルイスでプレーしたいし、この球団に残りたい。どうしても、トニー・ラルーサのもとでプレーしたいんだ。」

3月9日以来、田口の出場時間は非常に限られてきていた。土曜の試合で2回打席に立つ以前は、出場できた5試合でも1打席づつしか機会を与えられず、14打数連続無安打が続いていた。

攻撃面では苦しんできた田口だが、その忍耐強さと誠実さは、球団役員やチームメート、そしてメディアの面々を遍く感心させてきた。しかしながら、外野のポジション争いに最後まで残った他の選手達の出場機会を確保するために、(その可能性のほとんとない)田口に関しては、早めに決断する必要が出てきたのである。

カージナルスは、月曜に次のロスター・カットの正式発表を行う予定でいる。田口の名がその中にある可能性は、高い。どういう結果になるにせよ、田口は、3Aメンフィスでシーズンを始める覚悟があるということを、チームに伝えた。当初カージナルスは、田口がマイナー行きを了承するとは思っていなかったようだ。

3Aレッドバーズでなら、田口は毎日プレーする機会を与えられるであろうことをジョケッティーGMは確約している。

「(田口に対する)最終的な判断を下すのは、まだ早すぎるとは思っている。我々が、彼の可能性の全てを見ることができたかどうかも、定かではない。」とジョケッティーは言う。「だからこそ、自分が打てることを示す機会をもっと彼に与えることの方が、今は重要だと思ったんだ。もしかするとだめかもしれないが、少なくともその機会だけは彼に与えてやる必要がある。」

田口は、シアトル・マリナーズのイチローとSFジャイアンツの新庄に続いて、メジャーでプレーする3人目の日本人野手になろうとしている最中である。昨年の春の最初の頃は、イチローも新庄も今年の田口と同じように、かなり苦労してはいた。しかしながら、田口はイチローのような赫々たる打撃実績も、新庄がメッツ在籍時に見せた意外な程の安定性も、示すことは出来なかった。

       (以上)

[10466] エドガー・マルチネス選手の記事 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/03/20(Wed) 01:56
このところ、主力選手に関する記事が順番に各新聞に掲載されていますが、今度はエドガー選手です。オルルッド選手とは別の意味で、彼もまた、ハンディキャップを背負いながら真摯に野球に取り組んでいた一人だったんですね。若い頃からどれだけの努力を積み重ねてきたのだろうかと想像すると、本当に頭が下がる思いです
         −・−・−・−・−・−・−・−・−

        エドガー、まだまだ成功を見据える39歳
            ― アート・シール ―
         http://seattlepi.nwsource.com/baseball/62820_thie19.shtml

昨シーズンが終了した1週間後には、エドガー・マルチネスは、もうウエート・トレーニング室にいてエクササイズ・バイクに乗っていた。

さらにその1週間後からは、ほとんど毎日バッティング・ケージで打撃練習をするようになり、そのまま春季キャンプへと旅立って行った。

シーズンを重ねるにつれ、そして10年単位の歳月が過ぎて行くにつれ、マルチネスのトレーニング好きは、一種の球団伝説のようにして語られるようになってきた。39歳になった現在、マルチネスはさらに熱心にトレーニングに取り組むようになっている。「最近は、休むとその分を取り戻すのが、以前よりずっと大変になってきたのに気付いたもんでね。」とマルチネスは言う。

マルチネスの訓練メニューには、他人がほとんど気付かない部分が含まれている。というのも、それは、他のほとんどの野球選手が必ずといっていい程やっている事を、試合のある日にはしない―というものだからだ。

“テレビを見ない。”

“コンピューターをいじらない。”

“本を読まない。”

別にお高くとまっているとか、それらが退屈だからとかいう理由からではない。

マルチネスには、“斜視”という目の機能障害があって、ともすると片目でものを見てしまい、もう一方の目は反対側に逸れていってしまう。試合前に充分に目を休めておかないと、投手の投球スピードを判断できなくなってしまう危険があるのだ。

0.4秒で飛んでくる球を見極めるのを仕事にしている指名打者にとっては、これは極めて重要な事である。

「(この目の状態は)もう何十年も前からのことだ。子供の頃は、しょっちゅう学校でいじめられていた。」

マルチネスの利き目は左目で、そうでない右の眼球は、断続的に筋肉に引っ張られて外側に向いてしまうことがある。そうすると脳は視覚異常を避けるために、自動的に一時、右目からの情報を遮断してしまうのだ。

それが起こると、瞬間的に両眼視から単眼視になってしまうわけで、遠近感がなくなってしまう事を意味する。

打者にとって、遠近感は、球の速度を測る作業には欠かせないものだ。それがないと、球は捕手のミットに納まる直前まで、平面的にしか捉えられなくなる。

うっかりすると、その球は打者の肋に激突する可能性だってあるのだ。

「時々、どうみてもストライクの球を、エドガーが大慌てでバッターズボックスから下がって、よけることがあるだろう?」と検眼士でチームの視覚専門家のダッグ・ニカイタニが言う。「たまに、球を見失うことがあるらしいんだ。そういう時は、手や頭を怪我から守るために、ああやって体を引く方が安全なんだよ。」

通算打率.319を誇り、2回もアメリカン・リーグ首位打者を獲得しているマルチネスのキャリアは、それだけでも充分に素晴らしい。だが、他のほとんどのメジャーの選手達が当然と思い、気にもかけていない体の基本的な機能を保つために、マルチネスがいかに膨大な努力を注ぎ込んでいるかを考えると、彼の伝説は以前にも増して輝かしい物になっていく。

「違う目的をもった目の訓練を、いろいろやっているんだ。」と彼は言う。「全ては、両目が一緒に働くようにするためなんだけどね。」

「顔や目を一方向に急激に動かすと、脳が右目からの情報を遮断してしまい、自分で努力して右目を正しい位置に戻すまでは、その遮断状態が続いてしまう。だから打席に入ると、僕は、投手が投げる前から投手だけに意識を集中していなくてはならない。走者や内野手を見ることが出来ないんだ。それをやってしまうと、肝心な球が見えなくなってしまう恐れがある。」

そういう症状は断続的にしか起こらないが、自分でコントロールできるものではないので、目の訓練や休養は、辛抱強く続けていかなくてはならない。

「何かを長時間読まなくてはならない時は、試合後にするしかない。」と彼は言う。「とにかく、目を休めることが大切なんだ。でも、シーズンが進むにつれて、状態はどんどんよくなっては行く。僕の場合、視力はいいから、その点は問題ないしね。」

ニカイタニは、1980年代の中頃から、選手達のいろんな視覚問題に取り組んできた。最初の成功例は、当時のマリナーズのスター、アルビン・デービスの二重視を、片目に特別なコンタクトレンズを処方することによって矯正したことだった。ニカイタニは、毎年、チームのメジャーやマイナーの選手達の視覚検査を実施しており、マルチネスの障害も、彼がまだマイナーの選手で.270程しか打ってない時に見つけた。

もう一つの成功例はジェイ・ビューナーだ。利き目の右目ばかりで見る癖が打撃に支障をきたしていたのが発見されて、バッティングのスタンスを広げるようにしたところ、投手が球をリリースする瞬間が見やすくなったのだ。

「視覚の問題がバッティングに影響を及ぼしていることは、結構ある。」と昨日、ニカイタニは電話で話してくれた。「打者が何か違うことをしているなあ、という時は、打撃技術にではなく、視覚に問題があることがあるんだ。エドガーの場合は、奥行き知覚を向上させるために、もっとうまく両眼で見られるようにするための訓練をしている。」

「もし、僕が先生とかコーチの立場だったら、エドガーは間違いなく“完璧な生徒”といえるだろうね。」

エドガーがまめに目の訓練を続けているおかげて、チームとしては特に心配はしていない。どちらかといえば、マルチネスの足の筋肉の方を心配しているぐらいだ。マルチネスは、またもや痛めた大腿四頭筋の回復を待っている状態で、昨日4打席で2二塁打を放ったものの、今春の打率は.147しかない。

昨年の10月には、ソケイ部の筋肉を痛めたために軸足を充分に踏ん張ることが出来ず、ヤンキースと対戦したALCSでは、20打数3安打で終ってしまった。

39歳になったマルチネスに2日連続してヒットが出ないことがあると、その度に、“エドガーも、もう終りか?”という質問が囁かれ始める。ピネラ監督は、そんなことはない、と言う。

「タイミングがまだ合ってないだけで、あと10日もすれば、よくなるさ。」とピネラは言う。ピネラ自身のキャリアは、40歳になった年の半ばまで続いた。「ウィンターボールに行かなくなったせいで、以前より調整に時間が掛かっているだけだ。もっと打数をこなせばいいだけの話だよ。」

「この打者は、もうそろそろダメかな、と思うのは、球が勢いよくバットから飛ばなくなった時なんだ。以前なら外野手の間を抜けたような打球に、外野手が追いつくようになった時―。以前ならホームランになった打球が、フェンス手前までしか行かなくなった時―。内野を抜けなきゃいけないような打球が、内野手に獲られるようになった時―。」

「全てはバットスピードが問題で、(もうダメな時は)それがなくなってしまうんだ。でも、エドガーはまだ大丈夫だよ。」

もし『宿命すら跳ね除けてしまう程の、優れた人間の能力』というものの探索が行われるとしたら、それは、エドガーの所から始められるべきであろう。そこですぐに見つかるはずだから―。

                 (以上)(^^)

[10457] オルルッド選手の記事 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/03/19(Tue) 00:37
シアトル・タイムスのフィニガン記者による、読んでいて胸の痛くなるような記事です…。野球には関係ないし、暗い話なのでここにアップすべきかどうか迷ったのですが、昨年のオルルッド選手がこんなに大変な状況のもとでプレーしていた事を初めて知り、皆さんにも知ってもらいたいと思って、やはりご紹介することにしました。どうか、悪しからず…。

           −・−・−・−・−・−・−・−

               重い荷を背負って
        
             ― ボブ・フィニガン ― 
  http://seattletimes.nwsource.com/html/mariners/134422034_mari18.html

先日のあるオープン戦の開始前に、対戦相手のコーチがジョン・オルルッドに簡単な質問をした。

「家族は元気かい?」と、オルルッドのトロント時代からの友人で現在はホワイト・ソックスのコーチを務めるニック・レイバが尋ねたのだ。

「元気だよ。」とオルルッドは微笑みながら答え、会話はその後、野球の話題へと移っていった。

しかし、その簡単な質問と、それに対して発せられた礼儀正しい短い答えは、決して真実の全てを語ってはいない。ジョンとその妻ケリー、そして18ヶ月になる彼らの娘ジョーダンにとっては、簡単な事など何ひとつない。全く、何も―。

2000年8月30日に生まれたその日から、オルルッド家の第2子ジョーダンは、ありとあらゆる健康問題に苛まれてきた。綴りも意味も難解過ぎて両親の理解の範疇を超えるような医学的な異常が、次から次へと見つかったのだ。

「染色体異常に関係している事が、色々あるらしいんだ。第2染色体の欠損とか、第5染色体の重複とか…。」とジョンは説明する。「世間では、よく“crit du chat”と呼んでいる。フランス語で“猫の鳴き声”と言う意味で、この異常を持った赤ん坊の泣き声が、まるで子猫が鳴いているように聞こえるので、そう言うんだそうだ。」

「生まれた直後から、なんらかの先天性異常があることにはすぐ気付いた。授乳も満足に出来なかった―飲んだ物が逆流するんだ。鼻チューブを通して入れてもダメだった。」

逆流したものが肺に入って肺炎を起こす危険があったので、胃に直接チューブを入れるようになり、後には腸に入れるようになった。治療はシアトル子供病院でうけたが、オルルッドの父親は、そこの皮膚科の医師である。

「胃の内容物がたえず逆流するってことは、ジョーダンはたえず胸焼け状態にあって、すごく不快で痛かったんだと思う。」

ジョーダンは痛みからかほとんど眠らず、それにともなってオルルッド夫婦も眠りを奪われた。

「最初の何ヶ月間は、1時間か、良くて2時間しか眠ってくれないことが毎晩毎晩続いたの。」とケリーは言う。

夫婦にとって一番辛かったのは、苦しむ小さな我が子を楽にしてあげられる術が何もない事だった。長い事、異常の原因はわからなかったし、赤ん坊も彼らになんら訴える事が出来なかったのだ。

「抱いてあやそうとするんだけど、ジョーダンは息をするのも大変そうで、じっとしていられないんだ。」とジョンは言う。「最初のころ、一番こたえたのは、彼女が我々と目を合わせない事だった。彼女の視線は、我々を通り越したり避けたりした―自閉症的傾向もあったらしい。」

逆流症状は、昨年の9月に行われた胃と食道の位置を修正する難しい手術のお陰で是正された。

「食べ物を与えるのは、ぐっと楽になった。」とジョンは言う。「でも、今度は、必要な時にも戻す事ができなくなって、それはそれで、また問題なんだけどね。」

オルルッドはいつもの何気ない調子で「ユーモアで事態を乗り切ろうとした」自分の様子を語ってくれた。

「僕は、“野球選手のジョン”から“恐い医者のジョン”になったんだ。ジョーダンのために我々親がしてやらなくてはならなかった事の中には、結構、恐ろしい事が多かったからね…。」

オルルッドによれば、ジョーダンの状態は以前よりは良くなってきて、今は口から食物を摂ることも出来るようになったそうだ。だが、将来のことは、まだ誰にもわからないらしい。

「おかげさまで、ジョーダンは以前よりずっと楽になったみたいだ。最近では、僕たちの顔を見て笑うようにもなった。これは僕達にとっては凄く大事なことなんだ。子供が自分達を見て、自分達の存在をちゃんと認識してくれているってことが、親にとってはすごく励みになるものだから。」

「まだ、すごく大変だよ。特にケリーにとってはね…。でも、だいぶましになってきている。」

“まし”と言うのは、最初の1年は毎月1周間は病院で過ごしたのに較べて、この冬は、何回か具合は悪くなったものの、1度も入院せずにすんだ―と言うことだ。

それでも、未来が非常に不透明なことにはかわりはない。

「これから先、彼女の状態がどうなるのか、全くわからない。まだ赤ん坊らしい言葉は出ないし、寝返りも打てない。この子は、果たして話せるようになるんだろうか…?歩けるようになるんだろうか…? どんな一生を送るようになるんだろうか…?親としては、いろいろ思い悩む。」

オルルッド夫妻は、これまでもずっとそうしてきたように、深い信心と両方の実家の力強く暖かいサポートを頼りに、これらの不安を乗り切ろうとしている。教会と、オルルッドが「神が遣わしてくれた人」とさえ呼んでいるジョーン・フェリー看護婦も、この夫婦の大きな支えになっている。

「信心に関して言えば、僕達はジョーダンのことを神からの授かりものだと心から信じているし、彼女が我々の子供として生まれたのは、決して偶然なんかじゃないと思っている。―ただ、時々空を見上げては、“あなたがいったい何をしようとしているのか、どうも、私にはよくわかりません…。”と呟くことはあるけどね。」

ケリーは、自分もジョンと同じような事をしたことがある―と告白する。

「今でも、時々、すごく不安になることはあるの。」と彼女は言う。「でも、私は、神とその言葉にすがることで、今までも乗りきってきた。時には心が弱くなって、答えも道もみつからないと思うこともある。でも、だからこそ、人間は神を信じるんだと思う。」

マリナーズのチームメートでオルルッド夫妻の友人でもあるダン・ウィルソンは、彼らがそのつらさに立派に耐えている姿に驚嘆している、と語る。

「ジョンとケリーを見ていると、“神は、その人間が耐えられる以上の苦しみを、決して与えたりはしない。”という言葉の意味が、わかるうような気がするんだ。他の多くの人にとっては耐えられないことかもしれないけど、この二人は大丈夫。潔さと謙虚さをもって、立派にやっている。」

ウィルソンは、オルルッド夫妻の強さにも驚かされる、と言う。

「肉体的な強さも必要だ―特にケリーにとっては。精神的な強さに至っては、想像もできないほどだ。」

「彼らのあまりの強さに、見ているこちらは、時々、彼らが毎日直面している辛さのことを忘れてしまうこともあるぐらいなんだ。」

ケリーは、毎日毎日、病弱な子供の面倒を見なくてはならない。

一方、ジョンには、一流野球選手としての仕事がある。

「球場に来るのが、時々、凄く辛いことがある。僕達には3歳の息子もいる。彼は元気に走りまわっていて、他の子供達がしているのと同じような事を色々したがる。ケリーはジョーダンの世話でしなくちゃならないことが沢山あるのに、僕は(彼らを放って置いて)球場に来なくてはならないんだ。」

もっと辛いのはロードに出る時で、ジョンは、家族を置いて自分一人が旅に出てしまう事に対して、常に罪悪感を感じていた。「ある意味、球場に来れば、その間だけは色んな問題から離れられるわけだから、気持ちが楽になることもある。」と彼は言う。「でも、もっと大きな意味では、逆に辛くなるんだ。ケリーは片時も自由になれないのに、一時的とはいえ、僕だけ自由になれるのは不公平だと思うからね。」

ケリーは、夫のこの心の葛藤に気付いてはいたが、子供の世話で手一杯の母親としては、どうしようもなかった。

「ホームでの試合の時にジョンが球場に行ってしまうだけでも、私にとっては大変だったのに、ロードの時は、もう、ほんとに辛かった。」と彼女は言う。「でも、ジョンには、マリナーズの一員としてワールドシリーズに行って欲しかった。彼にずっと家に居て欲しかったのは確かだけど、(ワールドシリーズを狙える)こんなチャンスは滅多に巡って来ないことも充分わかっていたから、そのチャンスを捨ててとは、私には言えなかった。」

野球が、ジョンを家族から引き離すだけではなく、ジョーダンを養って行くための費用を稼ぎ出してくれるものであることも、ケリーは勿論、わかっている。

「野球が始まると、ジョンは私達と同じ世界に居るように見えて、実は、別の世界に行ってしまうことも、私はわかっているわ。」と彼女は言う。「仕事のために、そうしなくてはならない事もね。野球は、ジョンの全てを要求する。そして、私もそのことは理解しているつもり。最初の年に、私達を置いてロードに出ることに対して、彼がすごく罪悪感を感じていたことも、知っていた。」

「その罪悪感を、いくらかでも癒せてあげたか、って―?…そうね、少しは出来たと思いたいわね。」

「オフの間、ジョンは、とにかく出来ることはなんでもしてくれるので、凄く助かるの。でも、シーズンが始まると、ジョンはいつも居ない―でも、それは仕方がないこと。」

「私達は、看護婦のジョアンや、両方の両親がいて助けてくれるだけ、とても幸せだと思う。そういう助けを受けられない人達がどうやってやっていけるのか、不思議なくらい。でも、そういう人達は確かにいるわけで、本当に尊敬してしまう。」

ウィルソンは、彼らを励ましたいといつも思っている。でも、難しいのは、何をどれだけ、どういうタイミングで言うか―だと言う。 

「難しいバランス、っていうのがある気がするんだ。ジョンの傍に行って話だけでも聞いてあげて、自分が心配していて役に立ちたいと思っていることを伝えたいとは思う。でも、でしゃばり過ぎて、せっかく彼が保っている緊張感―とでも言うのかな…?それを壊してしまいたくはない、とも思うんだ。」

野球を通して学んだ事で(“勤勉さ”さえも)、ジョーダンの問題に対処するのに役立ったことは何もない、とオルルッドは微笑みながら言う。また逆に、ジョーダンとの経験が野球をする上で役立ったこともない、とも―。

「スランプは、やっぱりスランプには変わりない。でも、スランプから抜けるためには、何をすればいいのかは、わかっているよね―球をよく見るとか、センター方向を狙うとか、反対側へ流すとか。」

「私生活では、まず最初に当惑感と格闘した。次に、いったいこれ(ジョーダンの病い)はいつまで続くんだろうか?、とか、どれだけ悪くなるんだろうか?、とかになっていった。」

昨シーズン、オルルッドは前半には.316打ったが、後半には.287に落ちてしまった。ジョーダンに関する心配事が、この下落の原因だったのだろうか…?

「無意識に、それがあったのかもしれない。」と彼は認める。「でも、一方では、野球のシーズン中に普通に起こる現象だったかもしれないんだ―よくバットが振れる時もあれば、振れない時もあるわけだから。」

オルルッド夫妻は、たえず現実をみつめながら日々を過ごして行かなくてはならない。例えば、週に5回も医者やセラピストのもとに通わなくてはならないのだ。

「ジョン達を見ていると、周りにいる僕らの方が、逆に励まされるんだ。」とウィルソンは言う。「一度として、彼らが自分達のことを言ったのを聞いたことがない。いつでも謙虚に、黙々とことにあたっているだけなんだ。」

しかし、ジョンは、今までの18ヵ月の経験で、自分が他の人間と少しも違わないことを実感した、と言う。

「野球選手というのは、人生の色んな問題とは無縁に楽しく生きているのでは?―と思っている人も居るかもしれない。でも、野球をしているからといって、人生の山や谷は避けて通ることはできはしない。野球をするしないに関わらず、現実には、我々は他の人と少しも違わないんだ。」

                          (以上)


[10399] マリナーズの選手と車 ^^; 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/03/14(Thu) 10:49
今日もイチロー選手は2安打、マリナーズも11−4でホワイト・ソックスに快勝したようですね!(^^) 開幕戦の相手に対して2連勝とは、なかなか幸先がいいゾ!と喜んでいたら、「期待の大器ライアン・アンダーソン投手の肩に、再度故障発生」というバッドニュースが…。(-_-;)

…で、気分転換に、野球とは関係ない記事を一つ。車のことはサッパリわからない私ですが、選手達の意外な一面が見えてちょっと面白かったので、ご紹介します。
(ランプキン選手も出てきますよ〜。(^^)>ななかまどさん)

     −・−・−・−・−・−・−・−

 イージーライダーズ
     ― カービー・アーノルド ―
http://www.heraldnet.com/Stories/02/3/10/15280801.cfm

一台、また一台と選手達の車が到着し、マリナーズ・春季キャンプ施設の駐車場は、高級車や珍しい輸入車の展示場の様相を呈し始めた。

マイク・キャメロンのメルセデス、マーク・マクレモアのベントレー、アーサー・ローズのポルシェ、ルー・ピネラのキャディラック(レンタカー)。

その他にも、駐車場のあちこちには、車愛好者の垂涎の的の高級SUV車の数々(エスカラード、レンジ・ローバー、エクスペディション等)が、総皮シートや最新式電子機器を装備して駐まっている。

向かい側のサンディエゴ・パドレスの駐車場には、トム・ランプキンの6万ドル(≒780万円)もする特注のハーレーダビッドソンが鎮座している。

選手達が各々の自由時間に乗りまわす“クルマ”は、彼らが“カネモチ有名人”であることを、如実に物語っているのだ。

「我々は大金を稼いでいるんだから、こういったオモチャも買えるさ。」とエドガー・マルチネスは言う。彼は、自分の黒のキャディラック・エスカラードEXTを非常に自慢にしていて、ピカピカに磨かれた車体はまるで鏡のように輝いている―自分の姿を映して、髪を梳かせるほどだ。

「野球にはストレスはつきもの。試合が終ったあとには発散したくなる。」とマルチネスは続ける。彼は、完璧に復元された1971年型フォード・ブロンコの持ち主でもあるのだ。「試合後は、クルマやバイクに飛び乗って、自由時間を楽しみたくなるのさ。」

そして野球選手たちが愛車を買う時、だいたいは、自分の性格を反映するようなメーカーや車種を選ぶものだ。家族持ちの選手の場合は、便利だからという理由でSUV車を選ぶ事が多いようだが、中には車庫に“サラブレッド車”を置いている選手もいる。

「俺は、速い車が好きなんだ。」と言うのはキャメロンだ。彼のメルセデスCL55は、持ち主にそっくりだ―じっと停まっているだけでも、充分“速い”。「見栄えがして、それでいて派手過ぎない車がいい。それで、こいつを選んだんだ。」

「そうそう、マクレモア―。彼は、洒落モンだよ。」

マリナーズのクラブハウス内では、“車のことを知りたければ、マクレモアに聞け”と言われている。

ダラスで高級車輸入業を営んでいるマクレモアは、頼めばどんな車でも入手してくれる。専門は稀少高級外車で、自分もその類の車に乗っている。

この春、彼が乗り回しているのは、手作りの英国産名車・黒のベントレーで、その値段は、普通の人間にはとても手が出せない6ケタ台。(=数千万円)もう一台は、シルバーのメルセデスGクラスのSUV車だ。(7万2千ドル≒936万円をかき集められる人には、お薦めだ。)

―マクレモア以上のベントレーが欲しいって?

「最高級の車種は、アズールのコンバーチブルで、約425から430かな。」

ただし、その数字にゼロを3個づつ付けるのを忘れずに―(≒5,525〜5,590万円)。この数字を聞いても驚かない人は、マクレモアの顧客層と同種類の人間なのだろう。この商売を始めてから1年、野球選手仲間は大事なお得意さんだ。

「―でも、それまでにも選手たちに頼まれては、ちょくちょく手伝っていたんだ。」と彼は言う。「『こういう車が欲しいんだけど、どうしたらいい?』とか聞かれて、自分も好きなもんだから、結局、全部やってあげてた。そうしたら妻に、『どうせなら、商売にしたら?』って言われてね―。ほんとうは現役中から商売はしたくなかったんだけど、現役生活もそろそろ先が見えてきたし、どうせなら選手仲間のツテがあるうちに始めたほうがいいかな、と思いなおしたんだ。今の所うまくいってるよ。」

今までに何百台もの車にとっかえひっかえ乗った、というマクレモアだが、彼にしたって最初から高級車ばかりに乗っていたわけではない。一般の車好き同様、最初はささやかな所から始めているのだ。

最初の車は1979年型ダットサン280ZXの3年目の中古車で、19歳の時にドラフトされた時のボーナスを貯めて買った。たとえその車が茶色であっても、当時のマクレモアにとっては、実に美しい車に思えた。

「すごくいい車だった。」とマクレモアは言う。「―なんていったって、“自分の”だったからね。」

ランプキンは、昨年、子供時代からの夢をかなえて、車台が低くてふんだんにクロームメッキを施された“鉄の塊”、ハーレーを買った。著名なバイク職人、スコッツデールのジム・ナジの手作りの逸品である。

「バイクに乗るなんて、高校以来だ。」と、ブランシェット高校の1982年度卒業生であるランプキンは言う。

まるで映画「イージーライダー」の登場人物のようないでたちでハーレーを乗りまわすランプキンは、とてもメジャーリーグの選手とは思えない。昨年、マリナーズに在籍中は、ポートランドの自宅からシアトルまでハーレーで通っていたし、スプリング・トレーニング中は、よくフェニックスを抜けて北のケーブ・クリークやウィッケンバーグを目指してアリゾナの砂漠のハイウエーをぶっ飛ばす。

「ストレス発散には、もってこいなんだ。」と彼は言う。

マルチネスの最初の車は1970年製のトヨタで、彼の言葉を借りれば、「かなりのポンコツ」だったそうだ。

キャメロンは、ジョージア州ラ・グランジの自宅近くのラマダ・インで働いて貯めた2700ドル(≒35万円)で、最初の車、1982年型トヨタ・セリカを買った。「スティックシフトで、カッコ良かったんだ。」

次にブレット・ブーンだが、彼なら絶対、“ほれ、全員注目!”と言わんばかりの、派手できらびやかな車を選ぶに違いない―と誰でもが思うところだろう。

ところが意外にも、「俺は、あんまり車には興味がなくてね―。」と言うブーン。大抵は、妻のお古に乗っているんだそうだ。今、乗っているのはレンジローバーで、二人の子供のためのスペースがたっぷりある。妻のスージーがトヨタのセコイアを買ったので、ブーンに下がってきたのだ。

―ブーンの最初の車は?

「オレンジ色のディーゼルエンジンのピックアップトラック(集配用の無蓋小型トラック)。」と、あまり愉快でないティーンエージ時代の思い出をしぶしぶ語る。「車を細部装飾するバイトを二夏ほどやって、2000ドル(≒26万円)稼いだんだ。俺が稼いだ金額に親父が同額を足してくれる、ってことになってね…。」

当時フィリーズのスターで現在はシンシナチ・レッズの監督のボブ・ブーンは、その金を持って、友人のカーディーラーと共にオークションに出かけて行った。そして父親が乗って帰ってきたのが、なんと小型トラックだった―と言うわけだ。当然、当時16歳のブレットが欲しかった物からは、程遠かった。

「俺は、『オヤジ〜、ディーゼルトラックなんかいらないよ〜!デカイ車が欲しかったんだ〜!』って言ったよ。でも俺がもらったのは、あのディーゼルのガラクタだったんだ…。」

最終的には、ブーンは自分の欲しかった夢の車を手に入れることができた。1990年に初めてのプロ契約を結んだ金で、彼はフォードブロンコを買ったのだ。

「契約金は7万ドルとか8万ドルだったんだけど、当時の俺にとっては、8,000万ドルにも思える程の大金だった。(大富豪の)ドナルド・トランプにでもなったような気になっちまってね。そんな大金、それまで見たこともなかったから、『すげ〜!これで一生遊んで暮らせる!』とか思ったんだよね。で、早速、新車を買って、ついでに他の色んなものにも、金を使いまくった。」

「ところが、所得税のことを完璧に忘れていたんだよね〜。シングルAで一年プレーして、いざ税金を払う段になって、小切手を書いてから口座を確認したら、空っぽだった―。」

「ステレオを搭載したピッカピッカのブロンコの新車だったけど、結局、売り払う羽目になっちまった。」

―この冬、何百万ドルもの複数年契約を結んだブーンだが、そろそろカッコいい車でも買おうかな、と思い始めたようだ。

「でも、何を買ったらいいのか、サッパリわからないんだよね。」と彼は言う。

マクレモアという名前のディーラーに聞けば、多分、喜んで色々と教えてくれるはずである。

                   (以上)(^^)

[10337] イチロー選手と新庄選手の初対戦 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/03/09(Sat) 00:39
明日は、いよいよこの二人の初対戦が見られるんですね〜!
シアトル・ポストに、その事について載っています。(>Lavieさん(^^))
イチロー選手が、思いがけない冗談を言ったようで、ちょっと意外でした〜。^^;

           −・−・−・−・−・−・−・−

    イチローとシンジョーの対戦が日本のファンを興奮させる
             ― ジョン・ヒッキー ―
    http://seattlepi.nwsource.com/baseball/61436_mari08.shtml

ジャイアンツとマリナーズは、今日ちょっとした歴史を作るかもしれない。かたやピネラ監督は、その気になれば、かなりの大事件を引き起こせる立場にある。

最初の方は多分実現する。後者の方は当てにしない方がいいだろう。

マリナーズのイチローとジャイアンツのシンジョーが、もし今日の試合で両方ともプレーすれば、メジャーの試合における日本人野手同志の初めての対戦となる。

確かに、これは単なるオープン戦の1試合に過ぎないが、小さな歴史が作られる事には変わりはない。日本人の野手が日本人投手と対戦したことはあるし、同一の試合で勝利投手と敗戦投手が両方とも日本人だった、という事も過去にはあった。

しかし、今日まで日本人の野手同志が対戦したことは、一度もなかったのだ。

―これは、大した事なのか?

「多分、観戦している人にとっては、意味があることなんだろう。」とイチローは言う。「でも、選手にとってはあまり関係ないね。普通の試合にすぎない。」

そこにピネラの出番があるわけである。

「でも、もし、ルー(ピネラ監督)がシンジョーの打席の時に(投手として)僕に投げさせてくれれば、きっと大きな意味を持つだろうけどね。」とイチローは言って、悪戯っぽい笑顔になった。

それを聞いたピネラは、腹を抱えて大笑いをした。

「気に入った、大いに気に入った!そうなったら、ここはきっと、日本人の天国になっちまうだろうね。」

ピネラは、“イチローのそういう態度が気に入った”、と言っているのである…念のため。イチローが高校時代にはかなりいい投手だったことは、ピネラも当然知っている。だが、ピネラは、イチローがどんな球を投げられるのかを見てみよう―などという気を起こす積もりは、サラサラない。

「そんな事をしたら、私は、あっと言う間にクビになっちまうよ。」

イチローほど大切な選手に、マリナーズがピッチャーの真似をする事を許すわけがないのだ。イチローは、シンジョーと野手として対戦する事で、満足するしかなさそうだ。

このままでも、この対戦に対する興味は大きい。この試合は、NHKテレビが日本向けに放送するオープン戦4試合のうちの一つである。シアトルでは、テレビ放送はない。

「日本では、大騒ぎになると思うよ。」とマリナーズの環太平洋スカウトのハイドが言う。「日本のマスコミが、大々的に取り上げているからね。」

両方とも外野手ではあるが、これほど違う2人もいないだろう。イチローは物静かな男だが、実績は雄弁で、8年連続で首位打者を獲得している。(日本のパシフィック・リーグで7回と、昨年打率.350でアメリカン・リーグの首位打者が1回。)

シンジョーは、日本ではいい外野手ではあったが、イチローの実績には遠く及ばない。実際、イチローに及ぶ者は誰もいなかったのだ。だがシンジョーは、彼なりの方法でイチローよりはずっと目立っている。彼は、その時の気分に従って髪の色を変えたりする。お喋りも達者だ。明るいオレンジ色のリストバンドに目がない。そして、昨年、彼はメッツにとって非常にいい外野の守備要員であったことを証明した。

「彼は、面白いヤツだよ。」とハイドは言う。「この試合は、シンジョーにとっての方が、大切かもしれない。彼は、目立つ事が大好きだからね。」

イチローは、試合で結果を出す事にしか興味がない。彼は、自分のために、そして、チームのために頑張る男だ。

イチローが、水曜日に、この春初の盗塁を決めた時も、そういう理由からだった。ピネラは、春季キャンプ中には、選手達をあまり走らせたがらないほうだ。だがイチローに関しては、彼が開幕を迎えるための準備に必要だと思う事は、なんでも好きなようにさせることにしている。

「僕は、のんびりとはやりたくない。」とイチローは言う。「春季キャンプは、練習の場として活用しなくてはダメだ。盗塁のチャンスがあれば、盗塁するよ。」

昨年、イチローは、56盗塁でア・リーグ1位だった。打率(.350)の影に隠れてあまり注目を集めなかったが、イチローは、盗塁を彼が成功するための大きな要因の一つだと思っているようだ。

監督も同感だと言う。

「私は、イチローは今年はもっと沢山、盗塁できる思っているよ。」とピネラは言う。「1年たっていろんな投手とも対戦済みだし、彼らの癖も分かるようになった。昨年の最初の頃のような習得期間は、今年は必要ないからね。」

                   (以上)(^^)

[10325] 久しぶりのイチロー記事(2) 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/03/08(Fri) 16:36
のんびり訳していたら、すでにナンバーの訳が出ているんですネ〜。^^; 重複してしまっては無意味な気もしますが、やっぱり載せる事にします。スミマセン。m(__)m

[>Qさん、気にしないで下さいね〜。単なる道楽(古い^^;)で訳している私にとって、どなたかに面白いとか、役に立つとか言っていただけると、とても嬉しいものなんですから。(^^)]

              −・−・−・−・−・−・−・−・−

私にとっての決定的瞬間が近付きつつあったのだが、イチローはまだ、そのことを知らなかった。

午前中の練習からクラブハウスに戻ったばかりのイチローは、自分のロッカーの前のスツールに前屈みに腰掛けていた。彼の妻が毎朝2個のライスボール(お握り)を作ってイチローに持たせるのだが、そのうちの1個の包みをはがしている所だった。

「ライスボールかい?」とエドガー・マルチネスが聞く。

「そう、ライスボール。」とイチローが答える。

そのライスボールは、野球のボールより少しこぶりで、中には何か特別な具が入っている。ゆっくりと大口で何口か頬張ると、イチローはチラッと視線を上げて、混み合ったクラブハウス内の様子を見渡した。

周りでは、マリナーズの選手たちが思い思いにスツールに座っては、クラッカーの破片が盛大に浮いたカップ入りチリを啜っている。マルチネスは、ツナとサラダを食べていた。

マイナーリーグ出身の若い選手達は、タダで食べられる機会を逃すまいと、皆、10人家族でも充分養える程の大量の薄切り冷肉を挟んだサンドイッチにかぶりついていた。

イチローは、ライスボールだ。

それは、彼がずっと守り通している儀式のようなものだ。その他にも、イチローには色々な儀式がある。暇さえあればネコのようなしなやかさでストレッチを繰り返し、試合中も投手の投球の合間に外野で送球する真似をし、打席に入ればまずユニフォームの袖をつまんでから黒いバットを空にかざし、一瞬静止してから構えの動作に入る。

昨日、私は用意万端で身構えていた。

決定的瞬間の到来である。

イチローに挨拶をするのだ。

そして質問をする―できれば、二つほど。だって、今は春なんだし、なんてったってイチローはアメリカン・リーグMVPの現タイトル保持者なんだし、掴まえ所がなくて神秘的で、おまけに野球というスポーツに新しい側面を与えた非凡な人物なんだから、質問は是非したい―。

「あなたのスイングだけど―」と私は緊張しながら尋ねる。「―もう、かなり調子いいみたい…ね?」

答えを待ちながら、私は冷や汗をかいていた。でも、この質問で叱責されることはないはずだ。なぜなら、実際、彼のスイングは、もうすでにシーズン半ばと言っていい程の出来になっているのだから。この春、イチローはホームランも打ち、フォアボールでの出塁もはたして、「この二つが少ないからイチローはダメだ」とバカバカしくもイチローを非難し続けていた批評家達をサッサと黙らせてしまった。その上で、「これでいいだろう」といわんばかりに、またいつもの単打製造と、盗塁と、得点狙いのスタイルに戻っている。

それでも、私は落ち着かない気分で、足をゴソゴソ動かしながらスイングに関してイチローが答えるのを待っていた。というのも、これには過去の事情があるからだ―かなり気まずい事情が。

昨シーズンのボルチモアでのことだった。イチローが“野球の神様”であることも、急増中のイチローファンの大群が彼の考えていることを知りたがっているのも明らかだったので、私は彼の単独インタビューに初めてチャレンジすることにしたのだ。結果は、惨めなものだった。

インタビューは、たった1個の質問で終ってしまった。私は、精一杯の誠意と熱意を込めて質問したのだが、それに対する答えはもらえなかった。かわりに、イチローはただ微かに私の方に首を向けると、逆に質問してきたのだ。

「…『今シーズンの活躍は、御自分の予想以上でしたか?』というのは、どういう意味ですか?」と、イチローは通訳を通して訊いた。

「『予想以上』ということは、僕が予め『予想』を立てていた、ということになりますが、1年前には、自分がこうしてメジャーに来ることさえ知らなかったんですから、予想なんてたてられるわけがありません。」

私は、いっぺんに惨めさに包まれた。イチローが私のいるライトにゆるいフライを打ち上げて、それが目の前でポトリと地面に落ちてしまった―そんな気分だった。インタビュー終了である。

私はまるで、禅の師匠(イチロー)に「もっと人生とイチローについて、深く考えてきなさい」と命じられたグラスホッパー(=バッタ。テレビドラマでのデービッド・キャラディーンの役名)になったような気がした―そしてさらに、「充分に修行を積むまでは、戻って来るな」と。

―しかし、昨日は、その時とは全く違った何か素晴らしいことが起きた。

イチローは、“禅の師匠”を演じなかったのだ。

向けられる質問に対するイチローの猜疑心―彼の動き・気分・考えている事など、全てを捉えようとする(私のような)野球記者に対する猜疑心が、消えていたのだ。

イチローは親しみやすくなっていたし、魅力的になっていた。自分の発した冗談や他人の冗談が気に入ると、楽しそうにクックッと笑ったし、時には体をよじりながら大笑いをすることもあった。

昨年の春、イチローは、まるで「トヨタの組み立てラインで作られた何か素晴らしい謎の新製品」であるかのような言われ方で、我々の前に登場した。

ありがたいことに、「日本からの輸入品」という、センスのかけらもない失礼なあだ名は、ほどなく消えて行った。

そのかわりに、イチローはバットを構えた「サムライ」へと変身し、ずんずんと球史の中へ踏み込んで行っては、そのバットの一振り一振りで、自分の名前を球史に刻み込んでいった。言うまでもなく、畏敬の念に打たれた私達スポーツ愛好家の心にも、その名前は確実に刻まれていったのである。

その後MVP受賞を果たしたこの日本の青年は、今年も我々の前に、さらに素晴らしくなって現れた。

今年の彼は、神秘性や冷淡さが影を潜め、より魅力的で悪戯っぽくなっていた。

細かい点を説明する時はいまだに通訳の助けを借りたが、積極的に英語を使っては、自分で直接質問に答えるようになった。

さて、スイングについてだが…。

イチローは、肩をすくめて微笑んだ。

「悪くはないね。(Not bad)」と彼は答えて、“実はイチローは、キャメロンやブーンやマルチネスが気まぐれで教え込んだ“Wassup"や“Chillin' like Bob Dylan”などのスラング以上に英語をわかっている”という説が正しかったことを、証明してみせた。

イチローが私のほうを見上げて、もっと質問をどうぞ、というふうに頷いたので、私はさらに続けた。

「今年は昨年とは違う」という話になった。昨年の春は、初めて見るメジャーリーグの投手達の球が凄く速く感じたし、マウンドでの「スライド・ステップ」にも惑わされたままで3月のほとんどを過ごしてしまった。だが今年は、有り難いことに、非常に余裕をもってやっていけている。

走塁に磨きをかけたり、投手の投球モーションのタイミングを計ったりと、既に習得済みのようにも見えるメジャーの野球を、更に研究することに時間を使えるのだ。

「それは、正しいと思う。」とイチローは通訳を通して答えた。

「昨年は、僕にとっては調整期間だった。―というか、昨年の前半がそうだった。その後は余裕が出てきたので、今年はその延長と言う事になるのかな。」

私は、彼が日本で過ごした2ヶ月間のオフが、“異常な大騒ぎ”だったかどうかを尋ねた。―というのも、経済危機に直面した今の日本に、わずかでも自信を取り戻させることができるものがあるとすれば、それはメジャーでのイチローの大活躍に他ならない、と思ったからである。

「そう、“異常な騒ぎ”もあったよ。だいたいはとても良かったけど。」と彼は言う。「ある時、ホテルでエレベーターに乗っていたら、他の人達が乗ってきて、キャーキャーと大騒ぎになってしまった。皆カメラを取り出すと、エレベーターが上がって行く間中、ただ立っている僕の写真をずーっと撮ってるんだ。」

もう一回は、イチローが小泉首相が打診してきた「国民栄誉賞」受賞を断った時のことだった。

賢いイチローは、政府に政治的に利用されるのを避けるために断ったのかどうかについては、明かそうとはしなかった。ただ、自分がまだ賞には相応しくないと思ったので断ったのだ―と言うにとどめた。通常、その賞は、キャリアの終りを迎えようとしている人や、人生を通して社会に貢献してきた人が貰うもので、死後授与も多いという。

「その時(彼の死後)にくれればいいんだ。」と彼はニヤッと笑いながら言う。「死んだ後なら、彼らが何をしようとも、僕は一向に構わないから。」

「死」だなんて、とんでもない。彼は、今やっと打ち解け始めた所だ。

この悪戯っぽいスーパースターは、もっともっと奥が深いことが分かったのだ。

彼は、まだ、ようやくウォームアップをし始めたところだったことに、私は気付かされたのである。

                 (以上)(^^)

[10305] グリフィーの記事 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/03/07(Thu) 13:48
私も、読みました。(^^)
これはコラム記事なので、どちらかといえば、「情報」というよりは、このヴェシーさんの“個人的な思い”のような物のほうが強く出ている記事になっている気がします。(捻った物言いをするかたなので、訳すのがちょっとむずかしいですね…。^^;)

地元のファンの掲示板でも、「グリフィーに戻って来て欲しいか?」、また「万が一戻って来たとして、今の『全員野球』を身上とするマリナーズには、はたして彼のような自己中心的な選手の居場所はあるのだろうか?」、というような議論が、何かあるたびに熱心に行われているようです。「自分から出ていったような選手は、今更いらない」という意見の多い中で、「そうはいっても、マリナーズが移転せずに済んだのは、彼の頑張りに追う所も大きいし、もし、彼がレフトでもいいというなら、あの人懐っこい笑顔がもう1回見たい」という古くからのファンも、またかなりいるようです。

>Qさんへ、
あのフォーラムは楽しいので、私も良く覗いていますよ〜。(^^) 投稿されている日本人の方々の英語の素晴らしさにも、いつも感心させられています。私自身は、読むだけで、まだ投稿したことはありませんけどネ。^^;


                  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆

      グリフィー問題:マリナーズの“扉”は、まだほんの少しだけ開いている
                ― ローラ・ヴェシー ―
http://seattlepi.nwsource.com/vecsey/60954_vecs06.shtml

マリナーズにとっては、今では「賢い選択だった」と言われているグリフィーの移籍であるが、グリフィー本人にとっては、そういうわけにはいかなかった。

マリナーズのクラブハウスには、もう、皮張りの安楽椅子はない。打撃練習や試合前のストレッチ運動をサボったりする選手もいない。いまやマリナーズは、25人の選手全員が同等の価値を持ったチームに変貌していて、“お山の大将”ののさばる余地はなくなってしまっている。(注:マリナーズに在籍中、グリフィーは全てにおいて特別扱いで、ロッカールームでは彼専用の大きな皮の安楽椅子でくつろぎ、気まぐれで全体練習をさぼっても、誰も文句を言わなかったらしい。^^;)

―だからと言って、グリフィーに対して愛情を持ちつづけている人間が居ない、という訳ではない。グリフィーは、ティーンエージャーの頃からシアトルのアイドルであり、絶えず大衆の目にさらされた中での成長を強いられてきた。そのせいか、彼は、いまだに完全に大人になり切れないで苦しんでいるようだ。

こういうニュースは、今度が初めてではない。現在32歳のグリフィーは、この数年間怪我に泣かされ続けているうちに、何時の間にか、その輝かしい業績が色褪せ始めた過去の大スターに見えるようになってしまった。

シアトルとグリフィーを隔てる様々な過去の確執や諍いにもかかわらず、グリフィーに関して、シアトルは完全に拒絶を決め込んでいる―と言うわけでもないようなのである。

少なくとも、次の問題はまだ宙ぶらりんのままである: 「いったい、誰が、次にマリナーズで『背番号24』をつけるのだろうか?」という問題だ。

さらに、より興味深い状況がもうひとつ―。
フロリダのレッズの春季キャンプから聞こえてくる話では、今回のグリフィーは、(めずらしく)苦境に直面してもじっと耐えているようで、「シンチナチは気に入っているし、全てはうまくいくだろう」というコメントを出しているらしい。だが、それが話の全てではないようだ。

この冬、グリフィー本人やその周辺からマリナーズ関係者にかかってきた電話の内容が、そのことを物語っている:「家族事情、故郷に帰りたいという思い、そしてその他諸々の事情に促されて、当時グリフィーがマリナーズにトレードを要請したのは、判断の誤りだった」―というのである。グリフィーと親しい者の中には、シアトルに戻った方がいいのでは―と言う者さえいるようだ。

グリフィーが、再びシアトルのユニフォームを着る―?

荒唐無稽な話だ。ばかばかしい。

そんなことをすれば、マリナーズがこれまで守ってきた球団理念の全てに、真っ向から反することになる。

「そのことに関しては、私は何も考えていない。」と、マリナーズのハワード・リンカーン会長は昨日コメントした。

「(あのトレードは)グリフィー自身が決めたこと。(その後の諸問題は)彼の自業自得だ。我々は、彼の要望に沿っただけだよ。」

1999年11月、グリフィーが、マリナーズ側が提示した長期契約のオファーを声高に拒否して「シアトルを出て行きたいから、有利な移籍話を持って来い」と要求した時に、最も怒った人物がリンカーンだった。

移籍話がもつれるにつれて、グリフィーはますます頑なになっていった。そして、最終的に、レッズに対して、春季キャンプ開始前にトレードを成立させるように直談判したのは、リンカーン自身だった。

マリナーズ組織の一部では、この時のことが、今なお遺恨として根深く残っているようである。

だが、一方で、リンカーンの立場の対極に、“グリフィーは今でもマリナーズの一部である”という考え方が残っているのも、事実なのである。

そういう好意的な意見が、実際に彼の復帰を実現させるほどの力がないのは確かであるし、また、そういう理由で彼の復帰の可能性を考えることすら、間違っているのであろう。

しかし、過去には、チャック・アームストロング社長やジョン・エリス前会長のように、断固としてグリフィーを庇い続けたマリナーズ役員も、いた。彼らの心の中では、1987年にグリフィーが1位指名でマリナーズにやってきて契約延長を繰り返しながらずっとプレーし続けてくれたからこそ、マリナーズというチームは生き延びることが出来たのだ―という思いが、消えないのである。

マリナーズが今現在栄光の中にいられるのも、全てはその昔、グリフィーが頑張ってプレーし続けてくれたお陰に他ならない―という思いがあるのだ。

元レッズの選手達が、2年前グリフィーが移籍してきたことこそが、チームの凋落の原因であると主張しているのを聞いて、ピネラ監督が胸を痛めているのも、こういう思いがあるからこそだ。

「ああ、(あのニュースは)気になるね。心配している。だって、ちょっと公平を欠いていると思うから―。」と昨日ピネラは言った。

―もう1回、グリフィーを受け入れる気はありますか?
「それは、私の言うことではない。」と彼は言う。

「ジュニアー(グリフィーのこと)がここにいた時は、私はほんとうに彼が好きだった。私には、それしか言えない。あとは、パット(ギリックGM)に聞いたほうがいい。」

異色のGMとして、グリフィーやアレックス・ロドリゲスの抜けた穴を、的確なFA選手獲得で素早く手当てした実績を持つギリックは、グリフィーに対する非難の報道を耳にして不快感を持っている、と言う。

「(元レッズの)ヤングやリース、そして(現コーチの)オスターが言ってる事を聞いたけど、悲しくなったよ。あれだけ立派な成績を積み上げてきて、あれだけ野球全体に貢献してきた選手に対して、あんなことを言うなんて、ほんとうに情けないことだと思ったね。」

グリフィーをこき下ろす向きには、グリフィーの自業自得であるにもかかわらず、なぜマリナーズ内部には、いまだに彼に同情する声が存在するのか、理解に苦しむかもしれない。

だが、ほんの微かとはいえ、まだ議論の余地が残っているらしいことは確かなのだ。

「(グリフィーが)自分自身で下した決断なんだから、自分で責任を取らなくてはいけない。」とギリックは言う。「私に言わせれば、『彼は戻って来ない』という確率が90%だ。―だが、この世界では何が起こるか分からないところがあるからね。“絶対”という言葉は、私は“絶対”使わないことにしている。」

たとえ、最初に出て行ったのが間違いだったとはいえ、グリフィーにとってシアトルに戻ってくるというのは、正しい解決策ではないのかもしれない。またマリナーズにとっも、喧嘩腰で出ていったあのグリフィーを受け入れる場所は、今のクラブハウス内には残ってないはずだ。―だが、もし、キングドームのあの固いコンクリートのグランウンドで10年間も頑張ったせいで、脚がガタガタになってしまった32歳の元中堅手が、芝生のグランウンドでレフトを守ってみたい―と思っていたとしたなら、どうなんだろうか…?

現在シアトルが経験している“特別なもの”(something special)をそもそも可能にしてくれた選手―その昔、球団が逆境にあった時に頑張ってくれた功労者の一人である選手―が、もし自分もその“特別なもの”の一部になりたい、と思っていたとしたら…。はたしてそういう男のための場所は、あるのだろうか…?

もはや、彼が“お山の大将”ではないクラブハウス―そして、もう2度とそうなることはないであろうクラブハウスに、はたして、彼の居場所はあるのだろうか…?

かつて、グリフィーは、“故郷”(シンシナチ)に戻りさえすれば全てうまく行くと信じて、自分をあれだけ愛し続けて守り続けてくれた場所に背を向けて去って行った。それがいかに愚かな決断だったかには、当時の彼は気づくことができなかったのだ。

そしてその場所は、いまだに“忠誠心”(loyalty)からか、その扉を完全に締め切ることはせずに、ほんの少しの隙間を開けているのである―。

                     (以上)(^^)


[10287] デービス選手の記事 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/03/06(Wed) 01:47
(スミマセン。調子にのって、もう一つ。^^;)
ランプキン捕手との交換トレードでマリナーズへやってきたのが、パドレスの“アイドル”だった若いデービス捕手。マリナーズの首脳陣は前々からこの若者の素質に惚れ込んでおり、ウィルソン引退後のマリナーズの正捕手に育て上げようと、今、じっくり再教育している最中のようです。

しかし、球団の思惑とは別に、このトレードはランプキンにとってだけではなく、デービスにとっても少なからずショックだったようですね…。^^; 以下は、シアトル・タイムスの記事です。


           ☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 
        
        マリナーズ、修行中のデービスに満足
           ―ブレイン・ニューハム―
http://seattletimes.nwsource.com/html/mariners/134415030_blai05.html

フェンス越しに見学している若い女性達の中には、いまだに彼の名前入りのパドレスのユニフォームを着ている子たちがいる。 

なんと忠実なことよ。

「あれだけ才能があって、あれだけハンサムなのも、時には重荷になるんだろうな。」とマリナーズの選手担当役員のロジャー・ヨングワルドは言う。

ベン・デービスの世界へようこそ。
もし、あの野球映画『ナチュラル』の主人公、ロイ・ホッブスの設定がキャッチャーに書き換えられたとしたら(注:実際の映画では、天才的な打撃を誇るスター右翼手。ロバート・レッドフォードが演じてました^^;)、デービスこそ、その役にぴったりだと思えるほどである。

彼は、1995年のドラフトで、全体で2番目の指名を受けた6フィート4インチ、230ポンド(193センチ、103キロ)の堂々とした体格の有望なスイッチ・ヒッターで、素晴らしい強肩の持ち主でもある。

「ああいうすごい素質を持った選手を獲得できるチャンスは、そうそう巡って来るものではない。」とヨングワルドは言う。「たとえ、それがキャッチャーだろうが、ショートだろうが、左腕投手だろうが―そういう選手を見つけた時は、すぐに獲りに行かなくちゃだめだ。」

その1995年のドラフトで、マリナーズはもう少しでデービスを獲得できたかもしれなかった。第1指名権を持っていたエンゼルスは、ダリン・アーンスタッドを指名した。マリナーズは第3指名権を持っていたのだ。

「我々は、ベン・デービスとホゼ・クルーズ・ジュニアーの両方を気に入っていた。」とヨングワルドは言う。「もし、どちらでも選べる状態だったら、どっちにしていたか、ちょっとわからないね。」

だが、2番目に指名権を行使したサンディエゴのお陰で、マリナーズは悩む必要もなくなってしまった。当時18歳だったデービスは、マイアミ大学の奨学金を蹴って、サンディエゴと130万ドルで契約したのだ。デービスの両親はともに教師で、デービス自身もフィラデルフィア界隈の有名進学校マルバーンで4年間学んでいたのだが、結局、野球の道の方を選ぶことになった。

マイナーリーグで4年間過ごしたデービスは、パドレスへ上がって正捕手となった。予定通り…というか、早過ぎるくらいだった。

昨シーズン、24歳のデービスは122試合にスタメン出場した。メジャーで彼より多いイニング出場を果たしたキャッチャーは、7人しかいない。

4月には .308、5月には .272、6月には .264打った。しかし、7月と8月には.190しか打てなかった。

「暑くなるにつれて体重が減っていって、体力が落ちてしまった。」と彼は言う。「同時に、バットスピードも少し落ちた。」

相手投手に研究されてきた、というのも勿論あるのだろうが、ヨングワルドは、パドレスが少し急ぎ過ぎたのも原因ではないか、と思っている。マリナーズは、「マイナーで2,000打数以上打たせてからでなくては、若い選手をメジャーには上げない」という方針を守っている。だが、デービスは、せいぜい1,500打数しかマイナーで打っていなかった。

で、この冬、パドレスの将来を担う選手として、またファンのお気に入りの選手としても、絶対に他チームに出される筈はなかったデービスが、出される事になったのだった。マリナーズは、ヴァスケズ遊撃手、トムコ投手、ランプキン捕手をサンディエゴに送り、デービス、アリアス内野手、セラーノ投手を獲得した。

「サンディエゴは、スタメンで使えるヴァスケズとトムコ、そしてバックアップ捕手のランプキンを手に入れたんだ。」とヨングワルドは言う。「我々は、デービスを得るために、非常に大きな代償を払う羽目になった。」

ちょうど、タイミングがピッタリ合った―ということなのだろう。デービスは獲得可能な状態だったし、かたやウィルソンは、シアトルでの最終契約年に突入していた。

「ライアン・クリスチャンソン(1999年度ドラフトでのマリナーズの第1指名選手)は、まだあと1年は無理そうだったしね―。」

デービスがエージェントからの電話を受けたのは、フィラデルフィア郊外の自宅でバッティング練習をしている時だった。

「エージェントが、『トレードのことは聞いたか?』って訊いたんで、聞いたよ、って答えた―『ロベルト・アロマ―がメッツへ行くんだろう?』ってね。そうしたら、そうじゃなくて、俺がシアトルへ行くことになったんだ、って言われた。」

デービスにとって、それはショッキングな知らせだった。生涯ずっとパドレスの選手でいたいと思っていたのに、選手として生まれて初めて“お前は必要ない”と言われた気がした。

「最終的には、行く先がシアトルで良かったと思っている。だって、なんと言っても、最強のチームで、素晴らしい町と球場でプレーできるんだからね。」

この新しいチャレンジは、デービスにとっては非常に興味深い物になりそうである。というのも、彼が覚えている限りでは、今までの選手生活の中で、所属しているチームで開幕日にスタメン出場できないというのは、今年が初めての経験になりそうだからだ。

「ダン・ウィルソンは、素晴らしい選手だし素晴らしいチームメートだ。」とデービスは言う。「彼は、投手陣全員に好かれているし、クラブハウス内では、皆に尊敬されてもいる。彼の(ような素晴らしい選手の)バックアップを勤めることになったからって、文句を言う気なんて毛頭ないよ。」

―とはいえ、サンディエゴではチームの“アイドル”だったデービスにとって、正捕手から控えに回るという事は、決して楽なことではないはずだ。

自尊心はひとまず脇に置いておいて、ここシアトルで学べることは全て学んでやる、という心構えを持つことが必要になってくるのだ。たとえば、デービスが好むと好まざるとに関わらず、よりコンパクトで効率のいいスイングに変えなくてはならないのである。

「彼は、変わらなくちゃダメだ。」と、1時間近くもバッティングケージでデービスに打撃指導をしていたピネラ監督が言う。

ピネラは、自分の言わんとすることを伝えようとして、デービスに向かってボクシングのショートジャブまで披露して見せた。

「我々は、彼のスイングを、短くてスピードのあるものに変えたいと思っている。」と、後にピネラは説明した。「彼自身は、長くてパワーのあるスイングをしたがっていたんだけどね。」

うまくいきさえすれば、この試みは、関係者全てに好ましい結果をもたらすはずだ。デービスはウィルソンから色々学ぶことができるし、ウィルソンはデービスに出番を時々譲ることによって、この2〜3年間不足していた休養を取ることが出来る。シーズン中のウィルソンの疲労の蓄積を防ぐことによって、ポスト・シーズンのパフォーマンス・アップを首脳陣は期待しているのだ。

「辛抱強くやるよ。」とデービスは言う。「必要なだけ辛抱するさ。」

もちろん、サンディエゴにいた時のように沢山の試合に出場できれば、それに越した事はないだろう。だが、彼にとっては、昨年のシアトルのように優勝がかかった大事な試合に出られることのほうが、もっと重要なのだ。

「昨年のプレーオフの試合は、全部テレビで観ていた。」と彼は言う。「今年は、是非、自分もあの場にいたいんだ。」

―だが、そのためには、まずベンチからスタートしなくてはならない。彼のような“天性の野球選手”(a natural)にとっても、それは避けては通れない成功への道なのである。

                   (以上)(^^)

[10280] ランプキン選手の記事 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/03/05(Tue) 01:42
今朝の試合前、パドレスへ移籍したランプキン選手とマリナーズの面々が、トレード後、初めての再会を果たしました。ウィルソンを筆頭に、元チームメート達が次々とランプキンのもとを訪れては、ハグしたり、「どう、元気?」と声を掛け合ったりしたそうです。ランプキンがふざけて、「打ちやすい球を頼むよ。」とウィルソンに言い、それを聞いたマリナーズのブルペン・コーチが、「こうやって肩にバットを担いだら、『速球』って合図だからな。」と言ったりして、皆で和やかに笑いあったそうです。
http://seattletimes.nwsource.com/html/mariners/134414609_mari04.html

そうやって明るく振舞っていたランプキン選手ですが、今回のトレードは相当ショックだったようで、下記のマリナーズHPの記事に、その辺のことが詳しく載っています。


           ☆☆☆☆☆☆☆

        ランプキン、サンディエゴで順応中
           ―ジム・ストリート―

http://mariners.mlb.com/NASApp/mlb/sea/news/sea_news_story.jsp?article_id=sea_20020303_lampkinandnotes_news&team_id=sea

元マリナーズのキャッチャー、トム・ランプキンは、ようやく心の平静を取り戻したようだった。自分の選手生活を、地元チームのマリナーズで終えたいと願っていたランプキンだったが、彼のその望みは、昨年の12月のサンディエゴ・パドレスへのトレードによって打ち砕かれてしまった。

この2年間を気持ちよく過ごしたマリナーズでの居場所が、突如として消滅してしまったのだ。

「今は、もう大丈夫。」と、ランプキンは日曜のマリナーズvsパドレス戦の前に話してくれた。「今なら、君達(報道陣)と話せると思う。」

4日に38歳の誕生日を迎えるランプキンは、常に慎重に言葉を選んで話すタイプの男だったが、トレードが発表された直後にマスコミから掛かって来た電話には、一切出ようとしなかった。

「僕は、これまでずっと、適切な発言をするように心がけてきたし、同時に、自分が本当に思っていることもそれとなく伝わるように話してきた。」と彼は言う。「でも、あの時は、それが出来るような状態ではなかった。感情的に混乱していたんだ。」

家族の今後の生活プランを立てるのに2週間ほどかかった、とランプキンは言う。「3人の子供達の(学校)問題を決めた時点で、もう終ったことは忘れて新しいシーズンのための準備をしよう、というふうに気持ちを切り変えることにしたんだ。」

ランプキンにとって、12月11日の大型トレード(ランプキン・トムコ投手・ヴァスケズ内野手と、サンディエゴのデービス捕手・アリアス内野手・セラーノ投手との交換トレード)は、まさに“晴天の霹靂”だった。

「その日、僕は友達と山へ行っていて、一日中スノーモービルで走りまわったあと、下山してきたんだ。」とランプキンは話す。「電波の届く圏内に戻ってきて電源を入れた途端に、携帯がピーピーと狂ったように鳴り出した。メッセージが16個も入っていたんだ。家で何かが起こったのかと思った。」

妻に電話をしてトレードの事を知らされた。頭の中を色んな思いが走った。「何故なんだ―??」というのが一番の疑問だった。自分は、正捕手ウィルソンのバックアップとして、マリナーズの2年連続プレーオフ進出に立派に貢献してきたのではなかったのか…?

「すごくショックだった―。」と彼は言う。「パット(ギリックGM)も、僕に電話しようとしてくれていた。彼からのメッセージが、何個か入っていたんだ。なんで、自分はトレードされたんだろう?―って思った。なぜなのか、全くわからなかった。自分が何か(まずいことを)してしまったからなのかどうかも、わからなかった。」

「あとで聞いたんだが、首脳陣は、あと4年、5年、6年と、長期にわたってチームを引っ張って行ける若いヤツが欲しかったらしい。―それなら、僕にも理解できる。先日、副GMのリー(ペレコウダス)と話していたら、人間、長いこと仕事をしていれば、非常につらい決断を迫られることもある―という話になった。彼らにとっては、僕のトレードもそのひとつだったんだそうだ。それを聞いて、少し気が晴れた。」

ランプキンは、選手生活の終りをシアトルではなく、サンディエゴで迎えることになりそうだ。

「今、自分は満足しているけど、でも、あいつらに会えないのは本当に寂しいな―。」と、ランプキンはピオリア球場の反対側にあるマリナーズのダッグアウトを指差しながら言う。「彼らとの友情は、ずっと続くと思いたい。でも、この商売に“変化”は付き物だし、そのことは良く分かっているつもりだ。本当だよ。」

「子供達はサンディエゴの学校に転校させることにした。一番引っかかっていたのは、これからどうなるかわからない、っていう不安感だったんだ。いったんこういう風にきちんと生活設計が決まれば、もう大丈夫。正直言えば、今はもう、何も変えたいとは思っていない。ここは居心地がいいし、妻も気に入ってくれているようだしね―。」

                 (以上)

[10262] ジェフ・シリーロ選手の記事 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/03/03(Sun) 23:15
マリナーズHPに載っていた、新加入のシリーロ選手の記事が興味深かったので、ご紹介します。シリーロ選手のようなメジャー9年目のベテラン選手にとってさえ、新しいチームに馴染むのは容易なことではないんですから、異国から乗り込んだ昨年のイチロー選手がいかに大変だったかは、“推して知るべし”―ですよね。困難を見事に乗りきったその強い精神力には、今更ながら、頭の下がる思いです。m(__)m     
   
          ☆☆☆☆☆☆☆☆☆

        シリーロ、じっと時を待つ
          ―ジム・ストリート―
http://mariners.mlb.com/NASApp/mlb/sea/news/sea_news_story.jsp?article_id=sea_20020302_cirillo_news&team_id=sea


本来、ジェフ・シリーロという選手は、非常に陽気な男である。

だが、マリナーズの春季キャンプに初めて参加して2週間経った今、このベテラン3塁手は、まだ、周りに馴染もうとする“観察者”の立場からは、完全に抜け出せてはいないようだ。―というのも、割り当てられた2個のロッカーのうちの1個の「中」に腰掛けては、じっと物想いに耽るシリーロの姿を、時々見かけることがあるからだ。その姿は、(自分も早く「仲間の一人」になりたい―)と、思いつめているかのようにも見える。

「別に、場違いな気がする、ってわけでもないんだけどね。」とシリーロは土曜日に話してくれた。「ただ違うチームに移ると、まずは周りに認められなくてはならない。自分を新しいチームメートに認めてもらうのが先決問題で、今、僕の頭の中は、その事がグルグル渦巻いている状態なんだ。なんか、一つの事にピシッと意識を集中できないんだよね。そのうち、うまく行くとは思うんだけど、今は何もかもいっぺんにやろうとして、色んな事を気にしすぎているんだと思う。」

マリナーズのクラブハウスを占拠している面々の多くは、昨年116勝もしたチームの中心選手達だ。そのことが、今、彼の感じている戸惑いの主な原因に違いない、とシリーロは分析している。「ここの連中は皆、自分達が昨年成し遂げたことの記憶を大事に持っていて、僕のような新入りを見て、(はたして、こいつはここでやっていけるのか―?)って、思っているんだと思う。」

「いつかは、必ず馴染めるとは思うけど。」とシリーロは付け加える。

今年32歳のシリーロは、2000年にブルーワーズからロッキーズにトレードで移った時にも、同じような適応過程を経験したと言う。その時は、新しい環境に馴染むまでに春季キャンプいっぱいはかかったそうだが、今度も同じぐらいはかかるのでは、と本人は予想している。

「多分、僕は、そのこと(=馴染むこと)を気にし過ぎているんだと思う。」と彼は言う。「ほんとうは、けっこう面白い人間なんだけどね。チームメートをからかったりするのが大好きだし―。ポンと押せる魔法のボタンでもあれば楽なんだけど、そのうち慣れてくれば、もっと気楽にできると思う。それまでは、もうちょっと静かにしているつもりだ。」

(中略)

「彼はすごく真面目で一生懸命な人間で、自分のやること全てに誇りを持っている。」と、ペリー打撃コーチは言う。「冬の間に、彼のビデオテープをじっくりと観たんだが、ほんとにいいバッターなんでビックリした。打撃技術が実にしっかりしている。脚の使い方、前の肩(左肩)の位置、腰の位置、球の呼び込み方とか、そういったこと全てがいい。彼の加入は、チームにとって、ほんとうに良い補強になると思う。彼にも言ったんだが、ウチのチームではホームランを打つことなんて、気にしなくていい。大事なのは、得点圏に走者がいる時に、粘り強いバッティングをすること―“ピネラ式野球”を実践して、あらゆる方向に打球を散らして走者を進塁させることだ。」

外野にライナー性の打球を散らすのが得意なシリーロにとって、セーフコー・フィールドはピッタリなはずだ、とペリーは確信している。

南カリフォルニア大学で3年間一緒にチームメートとして過ごしたブーンは、この新入りの3塁手は「本物だ」、と言う。

「あいつは、チームにいろいろ貢献してくれると思う。」とブーンは言う。「ちょっと過小評価されてるきらいがあるけど、彼の守備は本当にいいよ。その上、3割2分以上を何回も打っているし、通算打率も3割1分はあるはずだ。(実際は.311)4000打数以上で(実際は3,937打数)3割打っていられれば、それは大した事だと思う。ウン、彼は絶対、大いにチームのためになる選手だよ。」

そして、勿論、ブーンはシリーロがチームに馴染むのを手助けして、ロッキースからマリナーズへの移行をより容易にするつもりだ。

「ブーニーは、他の誰よりも、僕の緊張をほぐそうとしてくれている。メンバー全員の信頼は、これからおいおい、得ていかなくちゃね。」

ブーン曰く、「静かなヤツだけど、ほんとうは、冗談を言ってふざけるのも好きなんだよ。」シリーロがロッカーの「中」に座っていたことについては、笑ってこう言う―「まあ、ちょっとヘンなヤツでもあるけどね。」

シリーロはそれについて、こう説明する:「僕は、座る時に背もたれが欲しいタイプで、あのロッカーの前においてあるスツールじゃ、ダメなんだよ。」

                (以上)(^^)

[10122] ブーン選手の記事(2)^^; 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/02/21(Thu) 09:09
>ななかまどさん、
私も、見出しが気になって、サンスポの記事を読んでしまいました〜。 でも、内容はといえば、ただ、「ブーンがイチローをこき下ろすような軽口をたたいていた」というだけなんですよね。確かに、あれだけ自己顕示欲の強い選手ですから、イチロー選手に対して、強烈なライバル意識を持っているのは間違いないでしょうが、下の記事を見てもわかるように、この程度の“悪口”は、ブーンにとっては、口を開けば出てくる挨拶代り^^;みたいなもの。むしろ、地元のマリナーズファンの間では、そういうブーンに対して、「チームを盛り上げようとして、偽悪的に振舞っている、チーム思いのいいヤツ。シーズンオフのゴタゴタも、それに免じて忘れてやろう。」という見方の方が多いようです。http://seattlepi.nwsource.com/forum/boards/viewtopic.asp?topicid=6952(シアトル・ポストのファン・フォーラムより。←ISIZEのAkira Yagi氏の記事作りの“手法”を、ちょっと真似てみました〜。^^;)

それなのに、“内戦勃発”などという刺激的な言葉をわざと使って日本のファンの不安を煽る、というのは、ちょっと…です。(-_-;)その程度で「内戦勃発」なら、下の内容だったら、「契約を巡って、ブーンと球団の関係が険悪化:ブーン、おおっぴらに社長を非難する!」とか「ブーン、大学時代の友人に対する陰湿なイジメ疑惑発覚!」、なんてことになっちゃいますよね〜。^^;

下記は、“ブーンって、こんなヤツ”というのが、更によくわかる、ボブ・フィニガン氏の記事です。(^^)

         ☆☆☆☆☆☆☆☆☆        

       ブーン、早くも“口撃”開始
http://seattletimes.nwsource.com/html/mariners/134407261_mari19.html

キャンプ入りしてから1時間も経たないうちに、ブーンは、ありとあらゆる球団関係者をからかっていた。

そう、「全員」である。

マリナーズのトップ、ハワード・リンカーン社長を最初に見つけた時も、ブーンは、今年の冬の長引いた契約交渉を引き合いに出して、こう囃し立てた。

「俺は、(球団に)不当な扱いを受けた!不当な扱いを受けたんだ!」

シアトルの球団最高責任者は、それをブーンの意図通り、彼一流のジョークとして受けとめた。

「ブレットは打撃は得意だが、どうも足し算は苦手みたいだね。」と、ブーンに年800万ドルをもたらす新しい契約のことを指して、笑いながら言った。「USC(南カリフォルニア大学)では、数学専攻じゃなかったんだね。」

ケン・グリフィー・ジュニア―やジェイ・ビューナーの系統の、騒々しくて、ちょっと乱暴で、そしてユーモアたっぷりの雰囲気作りを、ブーンは、マリナーズのクラブハウス内で引き継いでいこうとしているようだった。

日曜日には、サンディエゴでの元チームメート、ベン・デービスに会うと、ブーンはこう聞いた。「どうやって、また、ブーンのチームに潜り込んだんだい?」

きのうは、南カリフォルニア大学(USC)時代のチームメート、ジェフ・シリーロがUSCのTーシャツを着ているのをみつけて、「お前、もしかすると、(大学の)卒業アルバムもいつも持ち歩いてたりするのかい?」と、からかった。

ブロンズ色に染めた自分の髪を周り中の人間に見せてまわり、「どうだい?このハイライトの入り具合、いいだろう?」などと言っては、誉め言葉を催促した。

さらには、大きな「B」の文字が踵の後ろ部分に縫いつけられたナイキの新しいスパイクを誇らしげに見せびらかしては、全員から、「ほお〜」とか「へ〜」とかの感嘆の声や、笑いを引き出して満足していた。

「連中が、『KaーBoone』って入れましょうか?って聞いてきたんで、その必要はない、って言ったんだ。ただの『B』で充分。誰でも『ザ・ブーン』は、知ってるからね。」

すると、マクラーレン・コーチが、もっといいアイディアがあるよ、と口を挟んだ。「“B”ret “B”ooneなんだから、『Bの2乗』(注:“2乗”の表記が出来ませんでした〜^^;)にしてもらったらどうなんだい?」

(中略)

シーズンに向けた自分自身の準備については、ブーンは、昨年より7ポンド体重を落として、2000年に痛めた膝も、もう問題ない、と言った。(注:当時ブーンが所属していたサンディエゴは、この膝の具合を懸念して2001年にブーンと再契約しなかったのです。)

「体調はバッチリだよ。昨年の今ごろと同じぐらいか、もっといいかもしれない。膝もすっかりよくなって、もうテーピングの必要もないぐらいだ。」

(中略)

上から下まで、完全なユニフォーム姿に着替えてキャンプ入り初日のトレーニングに出て行こうとしているシリーロを目の端に捉えたブーンは、またまた、“シリーロいじめ”にとりかかった。

「なに〜?フル・ユニフォームだと〜?木曜までは、そんな格好しなくてもいいんだぜ、チル君よ。」(注:Cirilloのことを、『Chill』というあだ名?で呼んでいる。)と、自分はTーシャツ・短パン姿で、ブーンは言う。

すると一人の記者が、“USC時代に、ブーンが暴投してシリーロにぶつけた”、という例の話を持ち出した。

「そんなの、嘘っぱちだよ!」と、ブーンは慌てて早口で否定した。「俺が有名になったもんだから、誰かが面白おかしく話を作ったんだ。」

15フィートほど離れた自分のロッカーの前に座っていたシリーロが、ジーッとブーンを睨んでいる―。

「…俺、お前にぶつけたっけ?」と、それに気付いたブーンがようやくシリーロ本人に尋ねた。

シリーロは、1989年のその試合の相手と場所、さらには、チームメートのドン・ビューフォードに支えてもらって、ようやくクラブハウスに戻って横になったんだ、ということも付け加えた。

「額の真中に傷ができて、2週間も消えなかったんだゾ!」

それを聞いたブーンは、ゲラゲラと笑い出した。

「俺、そん時、謝った?…え?謝んなかったの?ウソ。―じゃ、『ゴメン』。さ、これでいいだろう?」

                (以上)(^^)

[10094] ブーン選手の記事 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/02/19(Tue) 10:14
やっぱり、この人がいないと、マリナーズは面白くありませんよネ〜!(^○^) ブーン選手の“賑やかぶり”を描いた、楽しい記事が地元のヘラルド・トリビューン紙にありましたので、ご紹介します。(…連続投稿、ほんとにゴメンナサイm(__)m)

       ☆☆☆☆☆☆☆☆☆

  ブーン、いつもの“自惚れ”をお供に、戻って来る
        ―ラリー・ラルー―
http://www.heraldnet.com/Stories/02/2/18/15177787.cfm

春季キャンプも、ちょっと退屈だなあ…と思う選手が出始めた日曜日、ブレット・ブーンがマリナーズのキャンプに現れて、1時間程の間は、見事に「退屈のムシ」を吹き飛ばしてくれた。

自信に溢れ、時には少々“自信過剰”気味(cocky)な2塁手ブーンは、クラブハウスに飛び込んで来て、パドレス時代のかつてのチームメート、ベン・デービスがいるのをみつけると、首を振ってわざとらしく驚いてみせながらこう言った。

「オイ、どうやって『ブーンのチーム』に、また、潜り込んだんだい?」

コーチ陣、選手達、マイナーの若手選手から最後にはピネラ監督に至るまで、全員が、ブーンの賑やかでおかしく、時には真面目でそして時には少しばかり下品な、彼独特のペースに巻き込まれていった。

全員と握手を交わし、向けられた質問に次々と答えながら、ブーンは輪の中心に陣取って広範囲の話題についてしゃべった。

●ナイキとの新しいスパイク契約について:

「連中はね、スパイクの踵に、俺がスィングしている絵柄と『Ka−Boone!』(注:ブーンの名前に掛けた『ドカーン』というような意味の擬音^^;。昨シーズン、よくこの応援プラカードが出ていた)って、入れようとしたんだぜ!それは、ダメだって言ってやった―俺の自惚れにだって、限度っていうもんがあるわな。いくらなんでも、そんなの履いて打席になんか入れないよ。」

―最終的にブーンとナイキが合意したのは、踵に大きく太字で『B』と入れることだった。

●チームメートでMVPのイチローについて:「今まで、あいつのような野球選手は、一人もいなかった。昨シーズン、2週間ほど全くバットの芯で球を捉えられない時期もあったのに、それでも3割5分も打っちまうんだからね。昨年の春、俺と共同で使っていた空きロッカーをあいつが占領しそうになった時には、『オイ!お前はいったい、何様なんだ―?』ってなかんじだったんだけど、実は、MVPだったんだよな〜。」

●自分の体重、188.5ポンド(≒85.6kg)について:「これ以上、増えないんだ―努力はしたんだけどね。既に筋肉が発達しきった状態だからかもしれない。」

●驚異的な2001年シーズンを再現する可能性について:「昨年のキャンプでも言ったと思うけど、俺はキャンプでは不調でも本番になれば調子があがるのさ。昨シーズンは凄かったし、今年も多分出来ると思うよ。ただ、140打点は、どうかな―?だって、こればかりは自分だけでは,どうしようもないだろう?昨年は、俺が打席に立った時は、いつも塁に走者が出ていたからね。」

「でも、『ザ・ブーン』(注:自分の事をこう呼んで、楽しんでいるもよう^^;)は、ガクっと成績を落としたりはしないよ。」

ブーンは、20日の野手の招集日までは本格的トレーニングには参加しない予定で、日曜日は、“ちょっと寄ってみただけ”、という感じだった。バットを少々振った他は、おしゃべりを沢山しただけで帰って行った。

「あいつみたいなのは、他にいないね。」とウィルソン捕手が笑いながら言う。

部屋に飛び込んで行ってピネラをみつけると、ブーンは、監督がオフの間に励んでいたというトレーニングをネタに、からかい始めた。(注:以前のシアトル・タイムスの記事によれば、7キロ程体重が落ちて、体つきが締まった、とのこと^^;)

「いい感じだね〜。」とブーンが言う。

「ほら、触ってごらん。」とピネラが切り返す。「(体が締まって)まるで、金床(anvil)みたいだから。」

全員に挨拶をし終わると、ブーンは打撃練習を25分間して、サインをいくつか書いた。その後はもう、大急ぎで帰る時間だった。

「『ブーン』は、ティーオフ(ゴルフのスタート)の時間が迫っているもんでね―!」と言い残すと、あっという間に去って行ってしまったのだった。

               以上 (^^)

[10078] “初イチロー記事”:シアトル・タイムス版 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/02/18(Mon) 01:03
度々、失礼いたします。m(__)m 今度は、ライバルのシアトル・タイムス紙の記事です。(>MY OH MYさん、ちょうど訳したところでした〜。^^;)こっちの方はちょっと長目なので、ところどころ割愛させて頂きますネ。^^;
http://seattletimes.nwsource.com/html/mariners/134406314_mari17.html

         ☆☆☆☆☆☆☆☆
     彼はMVP―でも、相変わらず謙虚
        ―ボブ・フィニガン―

昨年の11月、AL新人王受賞の知らせを受けた時にイチローが居た“アメリカ東海岸のある場所”というのが、実はクーパース・タウン(「野球の殿堂」のある町)だったことが分かっても、私は別に驚きはしなかった。

「そう、僕があの時、居た場所は『野球の殿堂』だったんだ。」と、イチローは言う。時には自分で、時にはテッド・ハイドの通訳を通しながらイチローは私の質問に答えた。「当時は言いたくなかったんだけど、シーズンが終ったらすぐに見に行きたいと思っていたのが『野球の殿堂』だった。受賞の知らせの電話は、そこで受けたんだ。」

この“巡礼の旅”は、野球というものを「情熱」と「正確さ」、そしてなによりも、「尊敬」と「愛情」をもってプレーするイチローのような人間には、ぴったりのように思える。

「クーパースタウンに行くことは、僕にとって、非常に重要なことだった。米国における野球の起源の場所を、是非この目で見てみたかったし、野球の歴史を知りたかったからね。」

(中略)

昨日のイチローは、キャンプに来たことをとても楽しんでいるようで、チームメート達と悪口を言い合ったり、新入りのボールドウィン投手と笑い合ったりしながら、昨年1年間に見せた以上の笑顔を見せていたように思えた。

「彼は、かなり心を開いてきたようだ。」とハイドは言う。「そうするように努力しているみたいだね。さっきは、誰かに石井投手に関する情報を英語で教えたりしていたし―。ブーンやキャメロンにならって、気分の切り替えをうまくやろうとしているみたいだ―必要な時は集中して、それ以外の時はリラックスするようにしよう、ってね。」

(中略)

2001年シーズンをずっと鈍感な振りを装って過ごしていたイチローだったが、実際は、その心は、その仮面の下でいろいろと揺れ動いていたようだ。日本という国全体が、彼の一挙手一投足をみつめていたのだし、全国民の願いやプライドが彼の両の肩にのしかかっていたのだから、当然だろう。今まで誰も経験したことのない重圧だったはずだが、イチローは実に優雅にそのプレッシャーに耐え抜いてみせた。

今、思い返してみると、去年の今ごろからシーズン終了までの一年間、たとえどんな風に振舞おうとも、片時もその重圧が頭を離れたことはなかった―とイチローは言う。

「重圧は絶えず感じていた。試合や、決まった手順、準備などに意識を集中することによって、昨年はその重圧に対処しようとした。今後、状況は変わるかもしれない―重圧は前より軽くなるかもしれないけど、他のどんな選手もそうであるように、プロの選手として、ファンの期待は絶えず背負っていると思っている。」

「僕やマリナーズが成功を納める事が出来たおかげで、日本のファンが幸せな気分や満足感を味わえたとすれば、僕としては非常に嬉しい。」

―だが、それは昨年のこと。今年は、どうなんだろうか―?「私に言わせれば、彼は今年はもっと良くなっていると思うよ。」とハイドは言う。「今年は、(昨年と違って)様子が良く分かっているからね。」

バッティングケージに入ったイチローは、まさにそんな感じだった。彼のバットは唸りをあげ、ライナー性の当たりを辺り一面に散らしていた。

「もし、明日シーズンが開幕したとしても、イチローはOKだよ。」と、ペリー打撃コーチは言う。「調子が良すぎて、恐ろしいぐらいだ。」

イチロー自身も、昨年との違いを感じる、と言う。

「あの頃は、アメリカの野球については自分では何ひとつわからなかったから、全て他人から聞いたことに頼ってプレーするしかなかった。でも、今年は、スプリング・トレーニングもフルシーズンも、全て自分で経験済みだ。何をすべきかが、今年はわかるんだ。」

イチローは、昨年、外面的にはその素振りも絶対見せようとしなかったが、実はずっと緊張していた、ということも認めた。

「ずっと緊張していた。本当に―。もし緊張なんかしていない、という選手がいたら、それは本当の選手ではない。緊張しないのは、ファンだけだと思う。―彼らには、成功しなきゃならない、というプレッシャーがないからね。」

「たとえ、練習をしっかりやって必要な準備を全てしたとしても、選手というのは、打席に入ったとたんに緊張するもんなんだ―それまでの努力を無駄にしたくはないと思ってしまうからね。誰でも、結果を出したいという思いで緊張してしまうものなんだ。」

―ただ、誰もがイチローのような(素晴らしい)結果を出せるとは、限らないのだが。

          以上 (^^)

[10071] 今シーズン初の“イチローキャンプ情報” 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/02/17(Sun) 15:29
日本の新聞では、とっくにイチロー選手のピオリアでの様子が報じられていますが、現地の新聞が報じたのは、多分、これが初めてだと思います。ほんの短い記事ですが、どうぞ。(^^)
            ☆☆☆☆☆☆☆☆☆

    「イチロー、休養充分&用意万端でスプリング・トレーニングに登場」
        ―ジョン・ヒッキー―  
http://seattlepi.nwsource.com/baseball/58650_mari16ww.shtml


土曜日がイチローのマリナーズ春季キャンプにおける完全なる“2002年度スタート”と呼べるかどうかは、意見の分かれるところかもしれない。

というのも、昨年度のアメリカン・リーグMVPは、ふらっと球場に立ち寄ると、外野で少しばかりキャッチボールをした後バッティング・ケージに入って何球か打っただけで、その後はほとんどの時間を3ヶ月振りに再会したチームメート達と近況報告をしあってすごしたからだ。

この日は、金曜日にマリナーズの投手陣とキャッチャー陣が正式にスプリング・トレーニングを開始して以来、初のイチローの登場であった。しかし、実際には、イチローは既に1週間以上も前からここの施設を使って断続的に自主トレに励んできている。

オフシーズンがほんの3ヶ月半弱しかなかったにもかかわらず、休養は充分とれた、2年目のシーズンに入る用意は出来ている、とイチローは言う。

「いいオフシーズンを過ごせた―いい休養になった。」と、イチローは益々上達した英語で言った。「調子はいいし、準備はOKだ。」

メンバーの入れ替えがかなりあり、特に外野では、アル・マーチン、スタン・ハビエア、ジェイ・ビューナーの全員がいなくなってしまった。ハビエアとビューナーは引退し、マーチンはフリーエージェントでセント・ルイスへ移籍した。

「すごく変わった―いろんな(メンバー)変更があった。」と、イチローはここからは日本語に切り替えて話し、それをテッド・ハイドが通訳する。

「イチローがね、“ここ(春季キャンプ)へ来てみたら、スタン・ハビエアが居た”、という夢を昨晩見たんだそうだ。」とハイドが言う。「あの連中と会えないのは、とても淋しいそうだ。特にハビエアとね。彼とはすごく仲が良かったから―。」

土曜日に到着したのは、イチローだけではない。ベルとのトレードでジャイアンツから移籍してきた内野手デジ・レラフォードも、この日初めてキャンプインした。

(野手の)正式なトレーニングは、2月20日から始まる。それまでは、選手達は好きなように設備を使って構わないことになっている。

                以上 (^^)


[10037] ピネラ監督のインタビュー記事 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/02/13(Wed) 16:26
ゴメンナサイ!m(__)m MOOMさんの暖かいお言葉に勢いを得て^^;、またまた、エラく場所を取る書き込みをしてしまいました〜。(忙しい方は、どうか飛ばして下さいますよう、お願いいたします。m(__)m)

今度は、シアトル・ポストから、キャンプインを直前に控えたピネラ監督の長〜いインタビュー記事です。フロリダの自宅の様子や、オフの過ごし方など、ピネラ監督の人情に厚い素顔が描かれています。

昨シーズン終了時よりもかなり体重を落としてシェープアップしたというピネラ監督ですが、フロリダの自宅の寛いだ雰囲気の中でのインタビューだったせいか、ワールドシリーズに届かなかった口惜しさやシアトルのファンに対する感謝の気持ちなどを、時には涙を浮かべながら切々と語っています。

            ★★★★★★★

        「ようやく立ち直ってきたピネラ」
            ―ホリー・ケイン―
http://seattlepi.nwsource.com/baseball/57924_lou12.shtml


昨年の10月23日の深夜、ヤンキー・スタジアムを後にするチームバスの中で、マリナーズのルー・ピネラ監督は、過去24年間、誇らしげにはめ続けていたワールド・シリーズ・リングをその指から外した。

1977年にピネラがヤンキースの外野手としてプレーしていた時に勝ち取った指輪だったが、そんなことはもうどうでも良かった。数時間前、その忌まわしいヤンキースに、彼のチームの運命は唐突に断ち切られてしまったのだ。そう、またしても―である。

「もうはめていたくないから、その指輪をバッグにしまっといてくれって、女房に渡したんだ。」とピネラは、先週、フロリダ州タンパの自宅で語った。その時の事を思い出して、ピネラは涙ぐんた。

「ヤンキースに阻まれてワールドシリーズに行けなかった事が、今年は特にこたえたんだ。」

妻のアニータは、再び指輪をするよう夫を説得するのに7週間もかかったそうだ。

想像してみてほしい。その卓越した野球采配能力よりも、アンパイアに向かって荒々しく抗議する姿の方が有名になってしまったピネラが、ランディー・ジョンソン、ケン・グリフィー・Jr、アレクス・ロドリゲスを欠いたマリナーズを、MLB記録に並ぶ116勝にまで導いたのだ。それなのに、プレーオフでは今年も虚しく敗退してしまった。そしてその相手は、またしてもヤンキーズだったのだ。

でも、ほんとうに辛かったのはその後だった。安息と逃避を求めてタンパの自宅に戻ったピネラだったが、その傷心の彼を待ち受けていたのは、毎日、否応なく彼を襲う“ヤンキース責め”だった。

ヤンキースのショートのデレク・ジーターとキャッチャーのホルヘ・ポサダは、ピネラと同じ北タンパの瀟洒な住宅街に住んでいた。今年の冬、ピネラは、週2回はこの2人と近くの高級会員制ゴルフコースで出くわした。

ヤンキースのオーナー、ジョージ・スタインブレナーも昔からタンパに住んでいて、付き合いの範囲もピネラとほぼ同じ、行きつけの店なども共通の場所が多かった。ヤンキースが春季キャンプを張る壮大なレジェンズ・フィールドは、ピネラのお気に入りのレストランから0.5マイルしか離れていなかったし、ピネラの少年時代の家の近くの「ルー・ピネラ・ソフトボール場」からも、たった数マイルの距離しかなかった。

「ジョージとは、あちこちで少なくとも週1回は、顔を合わせた。そして何回も言われた―『君も(監督として)かなり上達してきたようだが、誰が君にいろいろ教えたのかを忘れるなよ。―それから、私は全ての秘訣を君に伝授したわけじゃない、ってこともね。』」

●新しいルー:スマートになって、決意もより固く

ピネラ邸の円形の車寄せには、高級SUV車がとめられている。その2階建ての住まいは、決してこれ見よがしに派手ではないし、周りの庭も豪華ではないが、エレガントで居心地の良い家だ。大理石の床と涼しげな色使いが特徴で、背の高い熱帯植物の鉢植えが数多く配置されている。大きな台所へ通じる扉の上の鴨居からは、幼い孫娘用の室内ブランコが吊り下げられている。

ピネラの一番上の孫娘で5歳半のキャシディーが、よく来客をドアまで迎えに出てくる。留守番電話の応答メッセージも彼女の声だ。

ピネラは、タンパの名所にもなっている「マリオス・レストラン」での午後の“会合”から戻ったばかりで、ことのほか満ち足りた様子だった。以前よりかなり締まった体付きは、すぐにこちらの目をひいた。聞くところによると、この冬、週2回個人トレーナーについてトレーニングをしたおかげで、約15ポンド(≒6.8キロ)体重を落とすことに成功したのだそうだ。今年は、シーズン中も絶対にこのトレーニングを続けるんだ、とピネラは約束する。

「そんなに変わったわけじゃないよ。彼は、昔から変わらずハンサムだ。」と、長年の親友、トム・マクユーエンはピネラをからかって言う。マクユーエンは、タンパ・トリビューン紙の元スポーツ担当編集者で、オフシーズン中は、良くピネラと一緒に過ごしている。

ピネラの自宅事務所は、リビングルームからほんの数フィート離れた部屋にあり、大きな木製のデスクと皮の特大ソファーが2個置かれている。

部屋の窓からはゴルフ場が見えるのだが、そこでは数多くの著名な隣人達が日々、ゴルフに興じている。例えば、タンパ・ベイ・バカニーアズの元コーチのトニー・ダンジー、バッカニーアズのウォーレン・サップ、野球選手のフレッド・マクグリフなどだ。さらには、シーホークスのクォーターバック、トレンド・ディルファーやテニス選手のピート・サンプラスなどもこのあたりに住んでいる。

裏庭にある50フィートもある巨大な樫の木は、3人掛けの木製のブランコを支えていて、ピネラとアニータは、よくここで夕日を一緒に眺めるのだそうだ。

見晴らし窓の反対側には、数々の記念品で埋めつくされた壁がある。野球グッズの収集家なら、何時間も飽きずに眺めていられるほどだ。ピネラの部屋は、この広々とした家に住み始めてからの9年間、唯一、アニータが模様替えをしていない部屋だそうだ。本当は、この部屋をもっとマリナーズ色の強い部屋にしたいんだけど…と、少し弁解がましくピネラは言う。

「シアトルのユニフォームも飾りたいけど、なによりも欲しいのは、シアトルのワールド・シリーズ・トロフィーだね。そうすれば、この部屋はほんとうに完璧になる。」

部屋に入って直ちに目を惹くのは、壁の中央の目の高さにある4フィート幅の棚である。そこには、埃を綺麗に払った金色に輝く2個のワールド・シリーズ・トロフィーが飾ってある。一つは1977年に選手として獲ったもの、そしてもう一つは、1990年にシンシナチ・レッズの監督として獲ったものだ。

壁に取り付けられたラックには、7本のバットが掛かっている。その1本づつが、ピネラの野球人生での大切な1場面を表している。1本は1977年のヤンキース時代のワールド・シリーズからのものだし、もう1本は1972年のオールスター・ゲームからのだ。

レッズのオーナー、マージ・スコットからの写真が、ピネラの娘クリスティ宛のメッセージ入りで、壁に掛かっている。本棚には、数々の家族写真に混じって、ピネラのバブルヘッド・ドールが立っている。

デスクの後ろの棚には、1995年度最優秀監督賞のトロフィーが置いてある。その隣は、2001年度版のトロフィーのための場所だ。

レッズの監督として着た41番ユニフォームと、ヤンキースの選手として着た14番ユニフォームが、大きなガラスケースの中に飾られている。壁の反対の端には、1969年に獲得した新人王の盾が掛かっているが、あまりにも小さくて質素な盾なので、まるで高校生の大会かなんかで貰ったもののようだ。

野球関係の記念品で飾られた部屋ではあるが、ピネラは、自分は決してそういう品々にセンチメンタルにしがみ付いているわけではない、と言う。ピネラが部屋の中のもので一番大切に思っているのは、ヤンキースの元チームメートで友人だったキャッチャー、サーマン・マンソン(故人)の8×11サイズの写真なんだそうだ。

ピネラにとって、野球で大切なものは、「人」であり、「人とのいい関係」なのだ。もちろん、勝ちには拘るし、ワールド・シリーズの指輪も欲しい。だが、シアトルで彼が目指しているワールドシリーズ優勝の話を聞けば、ピネラのモーチベーションの根底に何があるのかは明白だ。それは、「人」なのだ。全ては、選手、マネージメント、コーチ陣のため―そして最も重要な、ファンのためなのだ。

シアトルの素晴らしいファンには、ワールド・シリーズを経験する当然の権利がある―とピネラは力をこめて話す。

●「監督業は、まるで人生のよう」

ピネラにとっては、「(相手に対する)忠誠心、誠実さ」(loyalty)こそが、大切なのだ。

1年前、フィリーズが新しい監督を探していると聞いたピネラは、ラリー・ボアを候補として考慮に入れるべきだ、とフィラデルフィアのスポーツ記者達に向かって話した。当時ボアは、ピネラの大切なコーチ陣の一人であったにもかかわらず、である。

フィリーズがピネラの助言を聞き入れた結果、ボアは昨年、アメリカンリーグのピネラと並んで、ナショナルリーグの最優秀監督に選ばれた。

「もしかすると、自分の受賞よりもラリーの受賞の方が、私にとっては誇らしくて嬉しかったかもしれない…」と、感極まった声でピネラは言った。

自宅で寛いでいる目の前のピネラが、以前に較べて「人間的にまるくなった」のは、明らかだった。ピネラ自身もそのことは認めている。年齢を重ねたことと、孫ができたこと、そしてより広い視野で全体を見渡せるようになったことが、ここまで彼を変えたのだ。

かつては、ピネラの“名場面集”の主役だった感情的な爆発や喧嘩腰の場面は、最近はすっかり(―少なくとも、ほとんど)見られなくなった。昔、ピネラがシンシナチの監督だった頃のことだ。御馴染みの「(判定に怒って)ベースを投げ捨てて、アンパイアにくってかかる」シーンがスポーツニュースに華々しく取り上げられると、当時9歳だった息子のデレクから電話が掛かってきた。

「その時デレクにこう言われたんだ―『お父さん、あれやるの、もう止めてくれない?家族みんなが恥かくんだよ。』ってね。」と、ピネラは回想する。

「“平静心”と“忍耐”―この2つは、私にとってずっと苦手なものだった。選手として、また監督としても、他のどんなことよりもこの2つを習得するのに一番、苦労した気がする。

ジョージ(スタインブレナー)に最初に(ヤンキースの)監督として雇われた時、監督が派手で感情的なパフォーマンスぐらいやらなきゃ、客なんか呼べないぞ、って言われたんだ。言われた通りのスタイルでやってワールト・シリーズも勝ったけど、そういう自分が本当は、あまり好きじゃなかった。それでアプローチを変えることにしたんだ。

今の自分は、徐々に変化してきた結果だ。どっちのタイプの人間になりたいか、自分自身に聞いてみたんだ。気性が激しくて他人を威嚇するようなヤツか、それとも、穏やかで平然と落ち着き払っているのに、きちんと結果を残せるヤツか、どっちがいいんだ?―ってね。後者のほうがいいと思ったし、私は今の自分の方が好きだ。

監督業は人生によく似ている。経験を通して、色んなことを学んでいく。そう、私は今でも、選手達に全力を出させるために、無理を言ったり、駆り立てたり、懇願したりするよ。でも、昔とは、そのやり方が違うんだ。」

ピネラに激情的な一面があったからこそ、かつて、あれほどチームメート達に愛されたんだし、後に選手達にも愛されたんだ―と主張する向きもある。彼らは、皆、ピネラの他人に対する誠実さや目的に向かって突き進んでいくがむしゃらさを好ましいものとして認めていた。

「ルーはとにかく素晴らしい個性の持ち主で、野球の試合に興奮や感動をもたらしてくれている―そして、シアトルの町そのものにもね。」と、野球の殿堂入りをしたかつての名選手、レジ―・ジャクソンは先週語ってくれた。「彼の成功をとても誇りに思うし、すべては彼のそういう資質のおかげじゃないかと思っている。」

今、ピネラのその情熱は、昔とは違う方向に向けられているに過ぎないのだと思う。シアトルの町にワールト・シリーズを持ってくることの重要さについて語るピネラの頬には、何時の間にか涙がこぼれおちていた。彼は、この町が彼のチームに与えてくれる圧倒的な応援の熱さに心から感動しており、また、フロントが彼やチーム対して示してくれる献身と責任ある姿勢にも、同じように深く感謝しているのだ。

AL西地区の中で勝つことすら無理だろうと思われていた2001年のマリナーズが、あれだけ沢山の勝利を重ねたことを、ピネラは誇りに思っている。また、ブレット・ブーンやイチローやフレディー・ガルシアが、3人の殿堂級の大スター達を失ったことを忘れさせる活躍を見せてくれたことも、ルーは誇らしく思っている。

「セーフコーほど美しい球場は他にはないし、ここの野球ファンは球界で最高だ。」とピネラは言う。

「―というか、シアトルは、多分全米1のベースボール・タウンだと思う。でも、たったひとつだけ、欠けているものがある。それが、ワールド・シリーズなんだ。もし、それが達成できるなら、これから2〜3年分の給料を差し出しても惜しくないほどだ。ただ、こういうことには“運”が必要で、物事が自分達に有利なように進まなきゃならない、ってことも良くわかっている。」

「私は、我々が昨年成し遂げたことを、非常に誇らしく思っている。こんなシーズンは、めったに巡ってこない―多分、100年に1回のことだろう。」とピネラは言う。「―と言いながら、春季キャンプで去年よりもうちょっと余計に選手達から要求するのは、ちょっと気が引けるけど、でも私はそうするつもりでいるよ。我々は、ワールドシリーズに行くという目標を達成できなかった。客観的に見れば、我々はまだハングリーな状態にいる、ということなんだ。」

●「私は、シアトルの人間なんだ」

今年のオフ、ピネラは、講演を2回引き受けたのと、マリナーズ・ファン・フェストへ出かけたこと、そして最優秀監督賞の授賞式に出かけた以外は、自宅からあまり離れなかった。その方が性にあっていた。ゴルフに勤しんで、釣りをして、3人の孫娘(キャシディー5歳、ソフィア2歳、アニカ4ヵ月)と遊んだ。彼の両親とも時間を過ごし、メキシコ湾沿いに車で1時間の所にある一家のビーチハウスにも頻繁に通った。

2002年シーズンの事は、まだほとんどわからない、とピネラは言う。知っているのは、開幕戦がシカゴ・ホワイトソックスとで、オールスター明けにタンパで試合があることぐらいなんだそうだ。

「正直に言うと、私が、今までで一番、良かったなあと思うのは、何にもすることがなかった頃のことなんだ。」とピネラは、にっこり笑いながら言う。「実際、春季キャンプに行かなくても済む日がそのうち来るのが、ちょっと楽しみでもあるね。…でも、それは、もう負けても全く口惜しくなくなって、勝ってもさほど嬉しくなくて、イライラすることのほうが楽しみを感じる部分を上回る時―って事なんだろうね。だとすれば、私は、まだまだ全然そこまでは行ってないな。」

アリゾナのキャンプへ旅立つ前の晩の先週の木曜日、ピネラはタンパでは超高級な事で知られる「オールド・メモリアル・ゴルフクラブ」で毎年開催されているパーティーに出席した。この町の著名なスポーツ関係者のほとんどが、毎年出席する催しだ。パーティーの一部は誰かを称えるため、一部は誰かをくさすために費やされる。ワシントン・レッドスキンスの新監督のスティーブ・スプリアーもいたし、バカニーアズの元クォーターバックのヴィニー・テステヴェルデ、マクグリフ、そしてピネラもいた。

今年はこのパーティーの席上で、「ヤンキースOB会」が、OB達に金のラペル・ピン(上着の襟につける飾りピン)を進呈することになっていた。それだけ多くのヤンキースOBがタンパ周辺には住んでいる、ということだ。自分にピンが進呈される番が来ると、ピネラは丁寧にヤンキースと出席者達に礼を言ってそのピンを受け取った。そして傍目からはわからないようにそっとピンをしまうと、司会をしていたマクユーエンの耳元でこう囁いた。

「とてもありがたいけど、私がこれを付けるわけにいかない事は、君にもわかるだろう? 私は、シアトルの人間なんだからね―。」


                    (以上)(^○^)


[9972へのレス] Re: シェリフ、カムバック! 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/02/11(Mon) 10:49
その“シェリフ”の近況についての記事が、シアトルタイムスに載っていました。「まだどうなるかわからないけど、でも…」という、ちょっと寂しいトーンの記事です。(―彼の希望通り、もう一回だけマリナーズに戻ってこられることを、私も祈っています!)

             ☆☆☆☆☆☆☆

     「チャールトンに再度のカムバックはもうないのか…?」
             ―ラリー・ストーン―
http://seattletimes.nwsource.com/html/mariners/134402442_stone10.html

先週、ノーム・チャールトンは、テキサスで開かれたボビー・ウィット投手の引退パーティーに出席した。ノームの言葉を借りれば、出席者たちは皆「昔ながらのガッツのある連中、野球を“正しいやり方”でプレーした連中」ばかりだったそうだ。

マーク・マクレモアもいたし、ウィル・クラーク、トビー・ハラー、ジョン・バーケット、その他沢山の選手が出席した。そしてもちろん、“シェリフ”ことチャールトンも―。彼も野球を“正しく”プレーした一人であるが、もしかすると、彼自身の引退パーティーも、残念ながら思ったより早く開かれることになってしまうのかもしれない。

2000年シーズン終了後に一度は引退しようとしたチャールトンだったが、周囲に説得されるままに、もう一度マリナーズに戻ってやってみることにした。結果的に2001年シーズンは大成功に終り、ブルペンの2番手左腕として、マリナーズのぶっち切りの優勝におおいに貢献した一人となった。チャールトンは44試合に投げて、4勝2敗、防御率3.02という成績を残した。

冬の間にシアトルと再契約を交わしたチャールトンは、メジャー生活15年目に入るための準備をしている最中の1月中旬に、肩に痛みを感じた。診断はショッキングなものだった。回旋筋が断裂しているということでラリー・ペデガナ医師が肩にメスを入れたのだが、さらなるオマケまで見つけてしまったのだ。なんと、回旋筋の他にlabrum(注:和名が不明…)も断裂していたのである。

今、チャールトンは左腕を三角巾で吊って、サンアントニオの自宅にいる。利き手ではない右手で食事をしながら、自分のこれからの野球人生について考えているところだ。というか、自分に果たして野球人生が残っているのかどうかについて思いを巡らしている―と言った方が、正確かもしれない。チャールトンは、このあと何が自分を待っているか、知っている―1年間のつらいリハビリだ。そしてそれが終わる頃には2003年のシーズンが始まっており、彼は既に40歳になっている。

リハビリは、もう決まっていることだが、未解決のミステリーのようにサッパリわからないのは、その後の自分が果たして何処にいるのか、ということだ―果たして、ピッチャーズマウンドに立っているのか、それとも(引退して)鴨猟や川魚釣りに勤しんでいるのか。

「この手術から回復するのは、たとえ21歳であってもキツイのに、39歳の自分にとっては、まるで急な上り坂を這い上がるようなキツさになると思っている。でも、いずれにしても、リハビリはしなくてはならない。そうしないと、自分がしたいことが何も出来ないからね。釣り糸を投げ入れたり、キャッチボールをしたり、ショットガンを撃ったり―。」

もう1回ピッチングが出来るのかどうかの問題は、肩の回復の経過を見るまでは考えないことにしている、とチャールトンは言う。あと2週間ほど腕を吊ったまま過ごした後、リハビリを始めるためにシアトルへ1ヵ月間戻る。そして、3月下旬には、マリナーズが春季キャンプを張っているピオリアへ行く予定だ。これは、単なる挨拶と顔見せの場になると思われる。

「完全に投げられないとわかるまでは、引退を決めるつもりはない。」と、彼は言う。「今回のことで自分が下した決断は、『今はまだ、決断する時期じゃない』ということぐらいだ。正直言って、もしリハビリ後に投げてみて、肩が痛くって全力ではとても投げられないとわかったら…。ダメな時は、どうやったってダメなんだろう。」

「―でも、もしリハビリをして調子が良くて、以前と同じようなレベルで投げられたら、そうしたらもう1回プレーするつもりだ。」

チャールトンが一つだけ決めていること、それは、もし復帰するのであれば、マリナーズの一員として復帰する、ということだ。もちろん、ジェームス・ボールドウィンがロスター(選手登録枠のこと)に入る場所を作るためにマイナーに落とされて、さらには先週の金曜に解雇された今現在の自分の身分が、規則上では「無所属」であることは充分に承知している。

「あれは、ビジネスとしては仕方のないこと。」と彼は言う。「当然、チームはロスターに空きを作る必要があって、ああすることが一番簡単な方法だったんだ。上の連中が、そうするつもりだって事を事前に言ってきたんだが、俺は、『自分も、もう39歳なんだから、そのへんのことは良く分かってる。そのことで(心が)傷ついたりはしないよ。もし19歳のガキだったら、うろたえて大騒ぎをしていたかもしれないが、そうじゃない。俺は39歳で、怪我をしていて、チームはロスターに空きが必要なんだから、俺をロスターから外すのは当然のことだ。』、と言ったんだ。」

過去に2回マリナーズを離れて、2回とも戻ってきたチャールトンは、「シアトル以上にプレーしたい場所は、他にはない」と言う。が、彼はまた、現実的な人間でもある。ウィットと同じように、自分ももしかすると、もう投げられないのかもしれない事もわかっている。

「別に、くよくよと思い悩んではいないよ。」と彼は言う。「ここまで、いい野球人生を送ってこれたんだからね。引退バーティーに来てた奴ら、一緒にプレーした奴らは、俺にとって皆、親友だ。もしこれで終りだっていうなら、その時は『それはどうも。凄く楽しかったよ』と言うしかない。それなりの素晴らしい結果も残してこれたんだし。でも、もし、まだ出来るっていうんなら、俺はまたピッチングに戻る。終わりはいつか必ず来るんだって事は知っているよ。―でも、こういう終り方はいやなんだ。」

            (以上)


[9971へのレス] Re: 石井投手、やっと契約... 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/02/09(Sat) 16:03
>Yoshiさん、
仰る通り、どうやらドジャース側としては、今回の契約は比較的安く済んで助かった(落札にかかった費用は別にして)、という感じみたいですね。^^;

下記は、ドジャースHPにアップされた入団記者会見に関する記事です。

☆☆☆☆☆
    「LAへようこそ、カズ」
     ―Ken Gurnick,MLB.Com―
http://losangeles.dodgers.mlb.com/NASApp/mlb/la/news/la_news_story.jsp?article_id=la_20020208_ishii2_news&team_id=la

(略)
何十人もの日本の報道陣が出席した記者会見で、石井は勇敢にも次のように英語でコメントして、30日間にも及んだ不透明な状況に終止符を打った:

「待っていてくれてありがとう。僕の名前はカズヒサ・イシイ―“カズ”と呼んでください。やっと、ここまで来る事が出来ました。ドジャースに来れて、本当に嬉しいです。僕の英語のスピーチはこれで終りです。質問は日本語でお願いします。サンキュー。」

その他にも、彼は妻から教えてもらったらしい英語の言葉ををいくつか披露した―例えば、“ダブル・チーズバーガー”とか“ゴルフコース”とか“カリフォルニア”とか。石井に言わせれば、日本人は恥ずかしがり屋なので、これらの英語もフロ場で練習したとのことだ。

ユーモアのセンスがあるのはわかった。だが、それよりもっと重要なのは、ドジャースのスカウト陣、コルボーン・ピッチングコーチ(ちなみに、日本で5年間のコーチ経験がある)等チーム首脳陣の言うことを信じるとすれば、石井には速球(本人曰く「 アメリカでは並」)、カーブ、スライダーとフォークもある、という事実の方だ。

簡単に言えば、ドジャースは1,126万ドルを払って“出来合いのメジャーリーガー”としての石井をヤクルト・スワロースから買って来て、ファームシステムの失敗を手っ取り早くカバーした、ということになる。

今週、交渉の為にロスにやって来た石井は、既にドジャースのトレーナーを着ていた。日本に戻って1年後に来れば、石井は制約無しのフリーエージェントとして、どこのチームとでも交渉できたはずなのだが、どうやら石井の頭にそのことは全くなかったようだ。

「メジャーリーグといえば、ドジャースのことしか考えられなかった。」と石井は言う。

もし、他のチームが交渉権を獲得していたらどうしていたと思うか、と聞かれた石井の答え:「もう1年待って、フリーエージェントとしてドジャースに来たかもしれない。」

石井との契約が今日のMLBの水準からすれば比較的安価だったことは、新GMダン・エヴァンスと交渉担当の新副GMキム・ヌがチームに導入した新しい経営方針の傾向をはっきりと示している。

石井は4年間1,220万ドルの契約を結んだが、諸報酬の総額のうち、500万ドルは無利息で支払いが延期されることになっているので(deferred without interest)、今現在の契約の実質的価値は、チームにとってはお得感のある、970万ドルになっているのだ。しかし、それ以上にドジャースにとって価値があるのは、チーム側が5年目、6年目のオプションを握っている事実で、それによって年俸調停に持ちこまれる心配がなくなり、それぞれの年度に330万ドルと400万ドルしか払わなくて済む。

これからの5年の間に起こるであろう年俸水準の高騰を考慮に入れるまでもなく、石井の今回の契約が“並の投手レベル”(being paid like an average pitcher)であることは明らかだ。この契約が、今後、新経営陣が推し進めて行こうとしている新しい経営方針の雛型となるのだろう。つまり、既に1億500万ドルにまで膨れあがっているチーム年俸総額をなんとかコントロールして、融通のきくものにしようとする試みの一環なのだ。

エヴァンスが就任した時点で、事態はかなり深刻だった。全ては、今までの“契約交渉”と呼ぶには、あまりにも気前の良すぎた大盤振る舞い的契約方法が原因だった―ケビン・ブラウンへの1億500万ドルに始まって、ショーン・グリーン、ダーレン・ドライフォートやカルロス・ペレズ等との契約に至るまで然り。どうやら、ドジャースのそういう時代は、もう終わったようだ。

(中略。…経営方針についての記述が続くので。^^;)

トレーシー監督は、石井がローテーションの何番目を投げるのか、という質問に対しては言葉を濁して答えなかった。まだエースのブラウンとアッシビーの復帰予定がはっきりしていないせいもあるが、石井への期待が高くなりすぎていることに対する配慮でもあったようだ。

「メディアの大騒ぎや、文化の違い、通訳を通して行う会見なんかが石井に及ぼすストレスが、私には理解できる。」と、日本で2年間プレーした経験のあるトレーシーは言う。「でも、今日、彼はとてもリラックスして楽しそうだった。彼らしさが出ていた。我々の過度の期待が、彼の重荷になることは避けたい。」(注:トレーシー監督と石井投手は、この時が初対面だったようです。)

昨年は、右腕投手しかいないローテーションで苦労したトレーシーだが、今年は石井の他にもオーマー・ダールやオダリス・ペレズという左腕がいる。ローテーションに変化をつけるためにも、理想的には、石井は右腕のブラウンかアッシビー、もしくは野茂のあとの2番手として投げさせたいところだ。

「彼の態度を見ていれば、彼が本気だということは、よくわかる。」とトレーシーは言う。「彼は野球に対して非常に真剣だし、負けず嫌いだ。大事な試合での勝ち方を良く知っているし、そういう試合には絶対投げたいと思っている。これは特別な資質で、他人が教えることは出来ない天性のものなんだ。」

       (以上)(^^)

[9815] シアトル・ポスト紙主催の「2001年スポーツ・スター大賞」 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/01/25(Fri) 00:35
シアトル・ポスト・インテリジェンサー紙が毎年主催する「スポーツスター大賞」の授賞式が、1月28日にシアトルのホテルで開催されるそうです。当日は、地域のプロ、アマのスポーツ選手の男性候補6人、女性候補4人の中から男女1名づつの受賞者を選ぶことになっており、イチロー選手の名前もその最終候補の中に入っています。かなり盛大な催し物らしく、一般のファンも予約をして60ドルの参加費を払えば(ディナー代等)、会場にはいれて投票にも参加できるようです。昨年は佐々木投手が受賞しており、その時は出席して直に賞を受け取ったようですが、今年のイチロー選手の場合は、どうやら欠席のようです。(他の候補者名を含めたこの賞に関する詳細は、http://seattlepi.nwsource.com/sportsstar/にあります。)

下記は、その賞とイチロー選手に関する記事です。イチロー選手が欠席することを、ちょっぴり恨めしげに(?)伝えています。(^^;

        ☆☆☆☆☆

「イチローはスター(星)の中のライジング・サン(昇る太陽)」
        ―David Andriesen―

http://seattlepi.nwsource.com/baseball/55620_star24.shtml

日本の春日井市のイチローの家には、「イチロー記念館」という別館がある。

その建物の壁やガラスのショーケースにぎっしりと飾られているのは、イチローの選手生活からの記念品の数々―子供時代から日本球界の頂点に至るまでの物すべて―である。9年間のプロ野球生活で獲得した物で、記念館は既に満杯状態になっている―7年連続首位打者、3回のMVP、7つのゴールドグラブを筆頭に、種々雑多な賞が、数え切れない程並べられている。もし「最多トローフィー獲得賞」などという賞があれば、イチローは、間違いなくそれも獲得しているはずだ。

イチローがアメリカのメジャーでの初年度を終えた時点で、きっとイチローの父親は、二つ目の別館建設のための見積もりを、あちこちの建築事務所から取りよせ始めた違いない。下記は、イチローが2001年シーズン中に、マリナーズを記録的116勝とALCS出場に導く過程で獲得した数々の賞の一部である:

アメリカンリーグMVP、AL新人王(満票に1票足らず)、AL首位打者(.350)、ゴールドグラブ賞、シルバー・スラッガー賞、オールスター最多票獲得、AL月間新人賞(4回)

言うまでもなく、このリストには、トロフィーやメダル授与の伴わないその他の各種記録や栄誉は、含まれていない―例えば、盗塁王、新人による最多安打数のメジャー記録、安打試合数記録、等々…。

よって、もし月曜の夜に、イチローが「2001年ポスト・インテリジェンサー・スポーツスター・オブ・ザ・イヤー賞」の受賞者として名前を読み上げられたとしても、誰も驚く人はいないだろう。イチローを含めた10人の北西地域のスポーツ選手達が、第67回受賞者候補として、シアトル・シェラトン・ホテルで称えられることになっているのだ。

イチローはまだ日本にいるため、当日は出席しないが、そのことで(イチローがこの賞を軽んじているのではないか、などと)あまりガッカリする必要はない。イチローは、MVPと新人王の授賞式にも帰って来なかったのだから―。

マリナーズのファンは、―そして、世界中の野球ファンも―イチローが初めて太平洋を渡って来た時には、いったいどういうことになるのか、皆目見当もつかなかった。それまで、日本の野手でメジャーでプレーした選手はいなかったし、日本のプロ野球のレベルに関する評価にはピンからキリまであって、判断の拠り所にはあまりならなかったからだ。

それでも、マリナーズはイチローとの交渉権をオリックスから買い取るために1,312万ドル、3年契約を結ぶために1,400万ドルを注ぎ込んで、イチローの持つ可能性に賭けた。

他のチームは、それを見て呆気にとられ、バカにして笑った。彼らには、マリナーズがあまりにも無謀な博打を打っているとしか思えなかったのだ。しかし、結果的には、イチローは非常に“お買い得な買い物”となった。開幕時から猛烈なダッシュを見せ、4月22日から5月18日にかけて23試合連続安打を記録した後も、ほとんど減速することはなかったのだ。

イチローは、それらを全て、前代未聞のプレッシャーとマスコミの注視のもとで成し遂げた。彼は、自分に向けられた賞賛の言葉をかわし、批判を無視し、できるだけ沈黙を守ろうとする姿勢を貫いた。

「思い返して見れば、試合のための準備は、十分に出来たと思います。」イチローは、シーズン終了後に、彼にしてはめずらしく雄弁に語った。「達成感があります。野球で100%の満足感というものはありえません。でも、今期、達成感や満足感を感じられた回数を思うと、とてもよかったと思えるのです。」

パット・ギリックGMは、イチローやファンが更なる満足感を得られることを期待している。

「彼は、メジャーの投手を打てることを証明してみせたと思うし、今期もまた同じ事をしてくれると思う。たとえ240安打は無理としても、彼の打撃技術とスピードをもってすれば、200安打は確実だろう。もし、ラスベガスでイチローの安打数をネタに“オーバー・アンダー”(試合の最終得点などがある数字を上回るか下回るかに賭ける博打)をするとしたら、きっと220か225安打あたりになるんじゃないのかな?」

イチローが2002年に収集するであろうトロフィーの数に関するラスベガス情報は、まだ聞こえてこない―。

 (以上)(^^)

[9826] 長谷川投手の記者会見 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/01/25(Fri) 23:41
昨日、セーフコーで、春季キャンプを控えて、ピネラ監督や移籍してきた長谷川選手の記者会見があったようです。下記は、シアトルタイムスに載った長谷川投手の記者会見を題材にしたユーモアたっぷりのコラム記事です:

            ☆☆☆☆☆

   「長谷川:救援投手だけでなく、コメディアンの役割も」
       ―Steve Kelley(タイムス紙コラムニスト)―
 http://seattletimes.nwsource.com/html/mariners/134395404_kell25.html

案の定、マリナーズの新しい救援投手、長谷川に向けられた最初の質問は、オリックスでのかつてのチームメート、イチローに関するものだった―「2週間前にマリナーズと契約してから、イチローとは話はしたのか?」

長谷川は、話していないと答えたが、そのあとさらにイチロー関連の質問がいくつか続くと、ニッコリと笑ってこう言った:

「ねえ、僕の事を話そうよ。」

―大爆笑が湧き起こった。

今期のクラブハウス内の相談役候補とでもいうべき長谷川は、マリナーズのクラブハウスの雰囲気にピッタリ合う男である。マリナーズのクラブハウスは、メジャー史上でも“最も感じがよくてプロ意識に徹したクラブハウス”、と言われているのだ。

野球以外のことで、昨年の“116勝マリナーズ”の最も素晴らしかったことは、自分達の「成功」に冷静に対処したことだ。彼らは、物事を常に大局的に捉えることができた。選手達はファンと同じように、素晴らしいシーズンを楽しんだ。自分達の仕事を心から愛していたし、自分達の幸運にちゃんと気付いてもいた。

長谷川も、そういう選手である。彼は、ブルペンで9イニングずっと一緒にいたいと思わせるような、実に楽しい男だ―相手をリラックスさせ、面白い話をして聞かせ、冗談を言って大笑いさせる事が出来る男だ。

長谷川の武器は、スライダーと“一発ジョーク”(one-liners)だ。彼は、笑顔を浮かべながら、相手を仕留める。

昨日のセーフコーでの「春季トレーニング直前記者会見」で、シアトルのピネラ監督は、長谷川について話す時に、かつての“不運の救援投手、アヤラ”の名前を引き合いに出してしまい、部屋中に、真冬の寒さにも似た、恐怖の戦慄を走らせてしまった。

「チャールトンを欠いてしまったが、長谷川を以前のアヤラのように使う事によって、かなりカバーできると思う。」

その言葉を聞いて、部屋の前方からはハッと息を呑む音が聞こえ、後ろの方からは悲鳴が上がった。記者達の脳裏に浮かんだのは、変化しそこないのスライダーが、キングドームの外野席の後ろの壁に当たって跳ね返る、あの悪夢のような映像だった。アヤラが登板するたびに鳴り響いたブーイングの忌まわしい記憶が、再び、呼び覚まされてしまったのだ。

アヤラのシアトルでの選手生活は、“騒々しい自暴自棄”とでも呼ぶべきものだった。彼は、必死に宿命に抗い続け、恐怖を引きつれてマウンドに上がった。

「願わくは、」と、アヤラのたとえ話が引き起こした不安感を拭い去ろうと、ピネラは付け足した。「願わくは、あの頃よりは、ずっとうまく行って欲しいとは思っているけどね。」

マリナーズのファンに向かって“ボビー・アヤラ”の名前を持ち出すのは、まるで大統領に向かって、“プレッツェル”の話を持ち出すようなものだ―聞いた者は、反射的に喉を詰まらせて、ウッとなる。(注:タイムリーな時事ネタのジョーク、わかりますよネ?^^;)

安心していい。そのまま飲み込んでも大丈夫だ。長谷川は、アヤラとは似ても似つかない投手だから―。長谷川自身が、真っ先にそう保証してくれるはずだ。

「ああ、アヤラね…。何年か前に見たことがあるけど、ああは、なりたくないね。…おっと!これ書かないで!」と、長谷川は苦笑しながら首を振って言う。「こりゃ、ヒドイよね。こんなこと言っちゃ、絶対まずい。」

幸いなことに、アヤラはもう、大リーグにはいない。そして、幸いなことに、長谷川は大リーグでNo.1を誇るブルペンの一員になったのだ。

マリナーズは、長谷川一人で、まるで救援投手を二人得たようなものだ。彼は、期待はずれだった右腕パニアグアと、怪我をしてしまった左腕チャールトンの、両方の替わりを務めることができる。

長谷川は“仕事の鬼”で、アナハイムでは3シーズン続けて60試合以上に登板した。彼は、左打者を打ち取ることが出来る右腕投手なのだ。

彼は、「アメリカン・ドリーム」を実現させた日本人でもある。

「子供っぽいかもしれないけど、大きな家に住むのが僕の夢だったんだ。」と言う長谷川は、1990年に「グッド・ウィル・ゲームス」(親善試合??)に出場するために、初めてシアトルを訪れた。「初めてここへ来た時は、僕もとても若かった。バンクーバーにも行ったんだけど、どちらの町でも、建っている家が、みんなデカかった。それで、『スゴイ!ここに住めば、大きい家が持てる!』って、思ったんだ。」

「日本の家は小さくて、まるで箱みたい―でしょ?…冗談じゃなくて、本当にそれが僕の夢だったんだ。いつも、アメリカに住みたいと思っていた。もちろん、野球も好きだ。ピッチングは大好きだよ。それがアメリカへ来た最大の理由だ。」

昨年、長谷川は、敵側からマリナーズが記録的な116勝を挙げるのを見ていた。

「実は、マリナーズが大嫌いだったんだ。」と長谷川は言う。「勝ちたかったからね。でも、今は皆、仲間だ。」

日本では先発投手だった長谷川だが、今ではブルペンの生活の方がドラマチックで楽しい、と言う。性格的に、こっちの方が合っているようなのだ。

「毎日、投げたい位だが、さすがにそれは出来ない。今はリリーフで投げるのが楽しい―特にセットアップの仕事がね。投げる時はいつでも接戦、ってのがいいんだ。8回、9回で2−1なんていうのが、最高に楽しい。セット・アッパーが投げるのは、いつでもそういう状況の時。いつでも、スリル満点さ。」

いい意味での、“スリル満点”である。“アヤラ式”の、ではなく―。

                    (以上)(^^)

[9785] 田口選手の入団記者会見 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/01/22(Tue) 17:11
日本の新聞のサイトでも、すでに会見の模様がアップされていますが、(http://www.yomiuri.co.jp/hochi/home.htmなど)下記は、現地の新聞の報道です。

    ☆☆☆☆☆

セント・ルイス・ポスト・ディスパッチ紙より:
「ファンの暖かい歓迎に田口感激する」 ―Mike Eisenbath―

http://www.stltoday.com/stltoday/sports/stories.nsf/sports/3808F0143D398BB586256B4900176F11?OpenDocument&highlight=2%2CSo%2CTaguchi?opendocument&headline=CARDINALS

カージナルスの新しい外野手、ソウ・タグチと妻エミコが土曜日にミレニアム・ホテルのロビーに立っていると、彼らに気付いたファンが寄って来てサインをねだった。ソウが快くサインに応じたあと、エミコは彼らにある頼み事をした。「明日のファン感謝祭で主人もサインをすることになっているんだけど、あなたがた、来てくださらない?あなた達だけでも主人の前に並んでくれるとわかっていれば、とても心強いから―。」

日曜の午後のファン感謝デーでエミコが言うには、ソウは前の晩、「今まで一度も見たこともない新加入の選手のサインなんか、誰も欲しがらないんじゃないかな…?」と、本気で心配していたらしい。

そのソウの前に出来た人の列の長さを見て、ソウとエミコは自分達の目を疑った。彼の前の列は、マット・モリス、ジム・エドモンズや野球の殿堂入りを決めたばかりのオジー・スミス達の列にも負けないぐらい長いものだったからだ。列が長くなり過ぎたのでもう並ばないように、とのアナウンスが流れると、エミコは泣き出してしまった。

「ほんとに感激しました。」と彼女は言う。「列を見渡して、夫の口を突いて出てくるのは『すごい…!』(Wow...!)という言葉だけでした。アメリカの4チームと日本の2チームからオファーを頂いたんですが、彼がセント・ルイスを選んだのは、ここのファンの素晴らしさによるところが大きかったんです。」

セントルイスのファンに対するタグチ(32才)の印象が正しかったことは、この暖かい歓迎によって確認された 。オリックスで10年間プレーして日本のオールスターの外野手にも選ばれたタグチは、イチローやシンジョーの後に続いて北米でプレーする決心をした。

そして、カージナルスもまた、タグチと彼を推薦したチームのスカウト部門を信じて、思い切ってタグチに3年契約を与える決断を下した。来月の春季キャンプで、タグチはレフトのレギュラーポジションの獲得競争に加わることになる。

オーナーのビル・デウィット・ジュニアーとタグチは、日曜午後に開かれた記者会見の席上で正式に契約に署名した。タグチはその場で、初めてカージナルスのキャップと名前と背番号99の入ったユニフォームを受け取り、英語に自信はないと言いながら、英語で書かれた挨拶を読み上げた。

「I'm So Taguchi, and I'm very happy to join the great history of the St.Louis Cardinals. I want to thank the fans for being so kind to me. I am very excited about the new challenge, but they have been very nice. The St.Louis fans have been a great help in making me comfortable. I have been here only a few days and already, I love this city...I thank you for listening to my poor English. I hope next year I will talk to you without this paper.」(田口壮です。セント・ルイス・カージナルスの偉大な歴史に加わることが出来て、とても幸せです。僕に親切にしてくれたファンの皆さんには、心からお礼を言います。僕はこの新しいチャレンジをとても楽しみにしていますし、皆さんのおかげで安心して頑張ることが出来ます。まだ来たばかりですが、もうこの町が大好きになりました...僕の下手な英語を聞いてくれて、どうもありがとう。来年には、こんなペーパーなしで、皆さんに話せるようになっていたいと思っています。」

カリフォルニア州のアーバインに2年間住んだことのあるエミコは、英語がかなり出来る。彼女によれば、ソウは英語の勉強に励んでいてアメリカの記者たちの質問のほとんどは理解できたそうだが、答える方は、通訳のブラッド・レフトンを通すことを選んだようだ。

興味を引いた答えとしては、ソウにとっての今後の一番大きな課題は、野球以外のこと―すなわち、新しい町と文化の中で自分自身の心構えと気持ちをしっかり持つこと、という答えだった。ストライク・ゾーンやピッチャーのこと、各地の球場のことなどに関しては、他の選手に聞いたりビデオテープを見ることですぐにでも覚え始めたい、とのことだった。

カージナルスのラルーサ監督も、既にかなりのビデオを観たようだった。タグチのプレーしている映像を出来る限り入手して研究しつくしたらしく、日曜には、その独特なバッティングフォームを真似て、タグチ本人を笑わせた程だった。―が、しかし、生涯打率.277を持ち、優秀な守備と走塁を誇るタグチがレフトのスタメンを獲得できるという保証は、どこにもない。

「彼をチームに加えるのは楽しみだ。」と、ラルーサは言う。「春季トレーニングでは、どんどん、打たせてみるよ。ウチはとてもいいチームだから、激しくて面白い競争になると思う。」

一方で、タグチが競争に勝ってラインアップの2番を打つようになっても少しも驚きはしない、ともラルーサは言う。

「彼は非常に運動能力の高い、堅実ないい選手だからね。」

会見でのタグチのその他のコメント:

チームメートとのコミュニケーションの取り方について:「他の人の言っている事は、だいたいわかると思う。自分がしゃべる方は、ちょっと…。最初のうちは、身振り手振りが主になると思う。」

カージナルスが彼のレギュラー獲りに期待していることについて:「かなり期待されていると聞いて、とても嬉しい。一生懸命頑張って、自分が十分できる事を皆さんに証明したい。」

デウィットは、今回の日本人選手の獲得を「チームにとっては、新しい時代の始まり」であると言う。

ラルーサが想像するに、もしスズキやシンジョーがあれほどのインパクトを与えていなければ、チームはタグチの獲得にもう少し慎重になっていたかもしれないが、結局は、獲得したはずだ―と言う。「我々は、スカウトの目を信じているからね。」

タグチは、その信頼にしっかり応えるつもりだ。

「今現在の段階で、自分はまだまだ進歩できると確信している。」とタグチは言う。「もっともっと、いい選手になれる。」

(以上)(^^)

[9743] ブーン、マリナーズと契約す(2) 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/01/17(Thu) 23:11
今度は、シアトルタイムスのフィニガン記者の記事です。より詳しい交渉と契約の内容が載っています。
http://seattletimes.nwsource.com/html/mariners/134392112_mari17.html

     ☆☆☆☆☆

マリナーズとブーンは、明日、それぞれが主張する金額を年俸調停の場で交換するはずだったが、そうするかわりに今日、両者が交換したのは、握手だった。

実際は、握手をしたのはシアトルのギリックGMとブーンのエージェントのアダム・カッツだったが―。これで2週間にわたる契約の細部に関する最終交渉はようやく終了し、ブーンは今年から3年間は、セーフコーの2塁にとどまる事となった。

「4年だよ。」と、ブーンが訂正する。「そう書いといてよ。4年目は、絶対獲るんだからね。」

1ヶ月以上も、この“4年目”問題が交渉を滞らせていた。今回の契約で、ブーンは、3年間で2,500万ドルを保証され、諸々のオプションと付帯条件が実行されれば、4年間に4,000万ドル近く得る事になる。

最初の3年間は年間800万ドルで、2004年に450打席をクリアすれば(注:シアトル・ポストの記事では、500打席になってました―^^;)、4年目には900万ドルを得る。

それに加えて、昨年と同じような活躍をすれば獲得できるインセンティブ条項も付いている。(中略)もし、ブーンがMVP投票の上位5名に入れば、そのたびに次の年には50〜100万ドルが年俸に上乗せされることになる。

「シアトルにずっといられることになって、ほんとうに嬉しい。」、とブーンは言う。「あの町が大好きなんだ。あれだけチームを愛し、そして僕個人を愛してくれた町を好きにならなかったら、その方が、おかしい。最初からずっと、僕はシアトルに残りたいと思っていたんだ。皆、僕の気持ちは知っていたはずだ。実際、そのことが僕にとっては、かえって不利に働いた気がする―。」

フリーエジェントになったブーンを真剣に獲得しようと動いたのは、結局マリナーズだけだったのだ。

「キツかったね…。全然、楽しくなかったよ。」自分に対する他チームの関心の低さを指して、ブーンは言う。「昨シーズンの成績をもってすれば、もっといろんなところが関心を示してくれると思っていたんだ。事の成り行きには、ほんとにガッカリした。でも、立派な数字を何年間も出し続けてきた選手で、僕よりもっとガッカリしている選手は、沢山いるはずだ。」

競合するオファーの欠如で、当初ブーンが期待していた年1,000万ドルの契約が無理だとわかった時点で、ブーンのエージェントのカッツは、4年契約を結ばない方針のマリナーズから、その4年目を引き出すことに精力を傾けることにした。

コロラドとの契約がまだ4年残っているシリーロをマリナーズが獲得した事も、この「4年目問題」で揉めているブーンとチームの関係を、余計にギクシャクさせた。ブーンが4年契約の締結を目指していたウィンターミーティング中に行われたこのトレードは、マリナーズの矛盾する態度を際立たせる結果になったのだ。

ウィンターミーティグ終了時に、ギリックは言ったのだ―「我々は、4年目の保証はしない。」

行き詰まった状態は続いた。―そして、年俸調停の数字を交換する期日が目前に迫っていた。(中略)

ブーンとマリナーズがそれぞれ、どういう数字を提出したのかを我々が知ることは、多分ないだろう。―ただ、カッツは、ブーンと似たような成績を昨シーズン残したサミー・ソーサ、ホアン・ゴンザレスやマニー・ラミレスといった「点取り屋」達を話の中で引き合いに出したことがあるのだが、彼らの平均年俸は、1,200万ドル余りだった。

マリナーズとしては、ブーンの好成績は昨シーズンのみのもので、ロベルト・アロマ―、ジェフ・ケントやレイ・デュラムといった一流の2塁手たちでも、800万ドル程しか取っていない、と主張したかもしれない。

ピネラ監督に言わせれば、この当然の合意にいたるのに、随分と時間が掛かったもんだ―ということらしい。

「公平な契約だし、最初からずっと実行可能な話だと思っていたし、やっと完了してとても嬉しい。ブレットのためにも、チームのためにも嬉しく思っている。ブーニーのような確実な選手が、あと3年、もしくは4年もいてくれると思うと、とても安心だ。」

ブーンも、同じく喜んでいる。

「シアトルのような素晴らしい町を『ホーム』と呼べることは、嬉しい。来週か再来週には、家を買うために向こうへ行くつもりだ。(注:ブーンは、現在、フロリダ州オーランドの自宅にいて、そこから電話記者会見に答えている)来年は、もう今年みたいな思いをしないですむと思うと、凄く嬉しいね。辛い経験だったけど、もう、終ったことだ。―早く野球がしたい。」

(以下略)(^^)

[9725へのレス] シアトルポストの最新の記事です(^^) 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/01/17(Thu) 17:50
シアトルポストのヒッキー記者の記事がアップされました。

「マリナーズ、ブーンと3年契約を結ぶ」
http://seattlepi.nwsource.com/baseball/54792_mari17.shtml

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(一部略)

「(年俸調停にまで突入して)徹底的に頑張ることも出来たけど、最終的には、“シアトルでプレーしたい”という自分の気持ちを優先することにした。」と、ブーンは言う。

「これで、もう、1年限りの家を借りずに済む―自分の家を買う事が出来るんだ。もっと粘れば、もう少し契約の条件も良くなったかもしれない。でも、その程度の金額の差で、自分のライフスタイルがどうこうなるってわけでもなかったし…。もう、契約のゴタゴタは十分だったんだ。今日、契約にサインできて、とても嬉しい。」

年俸調停を回避する事によって、ブーンは3年で2,500万ドル、4年で3,300万ドルを手にすることになる。今回の契約は、形式的には2005年のオプション付きの3年契約ではあるが、2004年に500打席をクリアすれば、自動的に4年目の契約と残りの800万ドルがブーンの懐に転がり込むことになっている。ブーンの最近7年間の年間平均打席数は、600近い。

(一部略)

あれだけの高成績を残したにもかかわらず、自分の希望する契約がなかなか手に入らない現実に、ブーンはかなり愕然としたようだ。それは、ブーンだけではなかった―どんな形の契約にも至っていない選手が、今年はまだ何十人も残っているのだ。

昨年は、カネはもっと簡単に動いた。だが、今年は、MLBのオーナーと選手達は、新しい労使協定の交渉に取り組んでいる。そういう年には、労働争議によるロックアウトやストライキの可能性が絶えずつきまとう。頭の隅にその事があると、年俸のレベルも低めに抑えられる傾向になる。―と言って、別に、ブーンが近い将来、セブン・イレブンで深夜バイトを始めなくてはならなくなる―というわけではないが。^^;

「きっと、何人もの(FAの)選手が『ああ〜、一年遅かった…』、と思っているはずだ。」とブーンは言う。「労使交渉の年には、こういうことが起こるんだよね。僕も含めて、沢山の人間が、今年の年俸の相場の成り行きにビックリしたんじゃないかな。」

―と言いつつも、ブーンは、球界は今年は紛争もなく、無事2002年シーズンに入れると予想している。

「自分は、選手の立場からしかしゃべれないけど、ストライキは、意味のある選択肢とは思えない。自分は、ストライキなんて全く考えていない。オーナー側がロックアウトすればどうしようもないけど、1994年の(紛争の)時に比べれば、自分は今回は楽観視している。あの時は、なんとなく、『これはダメだ』ってわかったし、楽観的にはなれなかった。でも、今年はベースボールの状態が素晴らしすぎて、そんな事にはなるはずがない、って思えるんだ。」

ブーンは、マリナーズというチーム自体が、その「素晴らしさ」の一端を担っている、と言う。シーリーやパニアグア、ベテランのビューナーやハビエアを失って、チームは昨年とは違ってしまったが、ブーンは、今年のチームもいい、と思っているようだ。

「間違いなく、僕は、このチームが気に入っているよ。シエラとシリーロを獲得できたし、アーロン(シーリー)を失ったのは大きいけど、ピネイロやフランクリンのような若い連中がステップアップするチャンスでもある。パニアグアを失ったけど、かわりに長谷川が来たし、だいたい、昨年と同じチーム状態になれたと思う。攻撃面では、少し強くなったかも。今年も、我々は、突っ走るよ。」

昨年の成績を今年も繰り返すのは、ブーンにとって、かなり大変なチャレンジになるはずだ。だが、数字だけが全てではない―と、ブーンは素早く指摘する。

「昨年、僕にとって大事だったのは、(成績の)数字だけじゃなかった。」と彼は言う。「昨年は、“習得”の一年だったんだ。前にもこのことは話したと思うけど、選手によっては、キャリアのかなり早い段階で『あ、これだ』っていう“コツ”をつかむことができる。でも、僕の場合は、昨年、その“コツ”をつかんだんだ。これで、あと3〜4年は、今のままのペースでやっていける気がする。まるっきり同じ数字を出せるかどうかは、わからないけどね―。」

(以下略)(^^)

[9703] 長谷川選手の電話記者会見 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/01/15(Tue) 22:46
シアトルポストの最新の記事です。(^^)

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「長谷川、マリナーズに来れて満足:“パシリ”のイチローとも一緒に―」
ジョン・ヒッキー

http://seattlepi.nwsource.com/baseball/54496_mari15.shtml


長谷川にとって、エンゼルスから年俸調停のオファーがなかったことは意外だった。アナハイムのブルペンの主力として、5年間もやってきたというのに…。

だが長谷川は、エンゼルスでのキャリアを過去のものとするのに、たいして時間は必要としなかったようだ。

「“天使”(Angeles)の一員として空を飛びたいと思っていた。」と、長谷川は昨日の電話記者会見で言った。「でも、今は“水夫”(Mariners)の一員として航海したいと思う。」

思えば、5年前に北米での新生活と野球を目指してオリックスをあとにして以来、長谷川は随分と進歩したものである。最初の記者会見でエンゼルスについて何を知っているかと聞かれて「ミッキーマウスとミニーマウス」と答えたのだが、当時は日本語だった。5年経った今、彼のユーモアのセンスは、立派にバイリンガルになっている。

長谷川は、まだオリックスでのかつての同僚イチローとは、話していないそうだ。

「日本では、年下の者が年長者に電話してくるのが慣わしなもんでね。」と33歳の長谷川は、28歳のイチローについて言う。「ま、でも、今夜、僕の方から電話してみようかな―。彼はMVPをとったんだから、(僕から電話しても)OKだよね。―あ、それから春季キャンプでは、MVPに晩飯を奢ってもらわなくちゃ。ゴルフもやって、もし僕が勝ったら、それも彼の奢り―。」^^;

ここで知っておかなくてはいけないのは、長谷川はゴルフが非常にうまい、ということだ。マリナーズでのNo.1ゴルファーの地位を、アボットと競う程の腕前らしいので、イチローが長谷川に勝つためには、奇跡的ショットが何本も必要になるはずだ。

昨年、長谷川とイチローはそれぞれ違うチームにいたにもかかわらず、けっこう頻繁に一緒に出かけたらしい。その理由のひとつとして、マリナーズとエンゼルスが昨年19回も対戦した、ということが挙げられる。また、マスコミの目も、西海岸では日本ほど光っていなかった、ということも大きかったようだ。

「日本でも何回か一緒に出かけたことはあるけど、イチローは日本では有名過ぎて、晩飯なんか食べに行くと、すぐに周りに人だかりが出来てしまう。彼は、いつも相手に気を遣う男だから、迷惑にならないようにと、他の選手とはほとんど一緒に出かけなかったんだ。昨年は、随分イチローに会えた―多分、日本にいた時よりも頻繁に。日本のマスコミがあまり居なかったからね。僕が彼を夕食に誘って、僕が払った。日本では、年上の人間が勘定を持つ事になっているんでね―。でも、彼は、こっちではまだ新人だろう?だから、僕は彼をパシリに使えるんだ(use him as a go-boy)。『なんか食べるもん買って来い』、とか『飲みもの買って来い』、とかね。」^^;

マリナーズは、今期、3人のベテラン日本人選手(長谷川、イチロー、佐々木)をロスターに載せてスタートすることになる。今まで、3人もの日本人選手が同じメジャーのチームに同時に在籍した事はない。長谷川は、これが新しい時代の始まりになればいい、と言う。

「他の日本人選手が成功するのは、とてもいい事だ―すごく嬉しい。10年前、僕はこうなる事を夢見ていた。まず、野茂が最初にこっちへやって来て、次に自分が続いた。そして、今は、日本人選手が何人も居る。」

マリナースにとっても、このことはいい事に違いない。佐々木はクローザーの中でもいい方だし(注:“one of the better closers”であって“one of the best”ではないところが、なんとも微妙…^^;)、イチローは昨年のアメリカンリーグのMVPだ。長谷川は優秀な救援投手で、昨年の6月に肩の故障を経験したとはいえ、過去2年間に112試合で151-1/3イニングス投げて、15勝9セーブを挙げている。

「ここのブルペンは、ネルソン、ローズ、佐々木さんが居て、凄く強力だ。僕にとって、これはいい事。僕はセットアップもできるけど、ここにはネルソンという最高のセットアップ投手がいるから、ロングリリーフや中継ぎをやってもいい。それに、ここなら、10日連続で投げたりする必要もないだろうからね。」

(以上)(^^)


[9567] 『2001年を振り返って』―シアトル・タイムスの記事より 投稿者:ウィンディー 投稿日:2002/01/03(Thu) 00:07
シアトル・タイムス野球欄の年末最後の記事は、マリナーズの夢のような1年を振り返る、ちょっとセンチメンタルな記事でした。ニュースの枯渇している今、よろしかったら暇つぶしにどうぞ―。(^^)
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   『2001年を振り返って―マリナーズマジックの1年』
  (シアトル・タイムス コラムニスト、Steve Kelley)

http://seattletimes.nwsource.com/html/mariners/134384868_kell30.html

セーフコーの上の階から、紙幣とブーイングがアレックス・ロドリゲスに向かって降り注いだ。内野席の最前列に陣取った男が、釣り竿の先にぶら下げた1ドル紙幣を、AーRodの背後数フィートのところでヒラヒラとさせた。

時はまだ4月16日―。しかし、シアトルでは、既にお祭り騒ぎが始まろうとしていた。

この町は、自分達のベースボールスターを失う事に、もう慣れっこになっていた。スター達には、いつでも“よそのドル紙幣(芝生^^;)の方が青く見える”ようだったし、チャンスにしても、他の町での方がより多く転がっているように思えるらしかった。

ランディー・ジョンソンが去り、ケン・グリフィー・ジュニアーが去って行った。―だが、最大の屈辱は、アレックス・ロドリゲスだった。重要なのはお金ではないと言い、シアトルに残留する意志をほのめかしておきながら、彼はスポーツ史上、最も醜悪な(obscene)契約を結んで、テキサスへと去って行った。

テキサス・レンジャースと2億5,000万ドルを目指して、彼はシアトルの町から“ずらかった”(split town)のだ。そして4月中旬、彼が去って以来初めて、試合のためにシアトルへ戻って来た。シアトルの町全体が感情を爆発させようと、待ち構えている中へ―。

まだ4月に過ぎなかったが、人々は、既に今シーズンがなにか特別な物になるであろうという予感を抱いていた。その時点でたった12試合しか消化していないにもかかわらず、“A−Rodなど居なくても、マリナーズは困りはしない”、という雰囲気が漂っていた。

イチローが、まるで機械のように単打を叩き出していたし、クレメンテのような送球をライトから連発していた。そして、すでにブレット・ブーンが、ロドリゲスのかわりにパワーヒッターとしての役目を果たし始めていた。マリナーズは、アメリカン・リーグ西地区の首位に立っていたのだ。

A−Rodがいなくなっても、この世の終わりではなかったのだ。紙吹雪の如く降り注ぐ紙幣とブーイングは、忘れ得ぬシーズンの最初の前兆となった。

4月から9月にかけてのマリナーズの快進撃は、シアトルという町のスポーツ史上、最高且つ最も長く語り継がれるであろう物語となった。

誰も予想すらしていなかった分、より素晴らしい物語となったのだ。野球ツウやスポーツ雑誌のほとんどは、マリナーズを「西地区の3位」ぐらいにしか予想していなかった。マリナーズはパワー不足であり、先発投手不足であり、選手層の厚み不足だった。

というか―、3月にはそう思えたのだ。

しかし、彼らは、シーズンが進むにつれて、どんどん素晴らしくなる心地よい驚きを、我々に与えてくれたのだった。

春季キャンプの時にはルー・ピネラ監督の心配の種だった謎の男、イチローは、メジャーを圧倒し、アメリカンリーグのMVPと新人王を獲得してしまった。そして、ブレット・ブーン(32歳)は、それまで通算打率.255の打者だったにもかかわらず、アメリカン・リーグの2塁手としては史上最高の打撃成績を叩き出した。2000年のほとんどを肩に故障を抱えたまま過ごし、シーズンの終了をギブスを付けて迎えることになったジェイミー・モイヤーは、今年、まるで新約聖書の中のラザロのように苦難の中から蘇ってみせた。彼は20勝投手となり、サイ・ヤング賞は獲れなかったものの、球界一の頼れる投手となったのだ。あのロジャー・クレメンスよりも、そしてあのペドロ・マルチネスよりも確実な投手に―。

このチームは、我々の毎日の生き甲斐になった。最悪な真夏の日々でさえ、マリナーズの試合を見られるのだと思えば、その不快さも癒された。

どの試合もそれぞれが特別で、相手がヤンキースだろうがタンパベイ・デビルレイズだろうが、関係なかった。セーフコーフィールドの各通路は、試合の1時間も前から、観客のざわめきに満ちていた。

騒々しい音楽やスコアボードの派手な演出など、マリナーズの試合には全く必要なかった。このチームは、自分達自身で全てのエネルギーを産み出していたのだ。

彼らは、今期116勝もしたのだが、その数字以上の物がそこにはあった。彼らは、まさに教本通りの野球を見せてくれた。お互いのために犠打を打ち、ダブルプレーをこなし、外野からぴたりとカットマンに返球した。得点圏に走者を置いては、きっちりとヒットを打った。

「ツーアウトだって?それがどうした!」は、単なるスローガンではなかった。それは、選手達の考え方、そのものを表していた。

マリナーズは、イチローの内野安打に勢いを得た。そして、同じくジョン・オルルッドの痛烈な2塁打にも。ブーンの流し打ちのホームランにも。モイヤーのチェンジアップにも。佐々木のフォークボールにも。ジェフ・ネルソンのスライダーにも。アーサー・ローズの速球にも。そして、フレディー・ガルシアの投げる凄い球にも勢いを得たのだ。

このチームは、マーク・マクレモアのような選手に支えられていた。有能な2塁手であると同時に、ショートも三塁もレフトもこなす、古き良き時代のプロ意識の塊のような選手に。また、ロドリゲスの抜けたショートの穴を難なく埋めたカルロス・ギエンによっても。

そして、まるでブルックス・ロビンソンのように三塁を守ったデイビッド・ベルにも。そして、そのスピードとライナー捕球の“特技”で広いセンターの空隙を狭く感じさせたマイク・キャメロンにも支えられていた。

かつては、「ヒット・アンド・ラン」なんかより「水上飛行機」の方に興味を持っていたこの町が、マリナーズに夢中になったのだ。6年前には、もう少しで野球その物を失いかけた町が、今や野球熱に冒されたようになっていた。

真夏の盛りにベルタウンやクイーンアン、キャピトルヒルやレニエバレーのバーの前を通りかかると、必ず開いた扉の中から、デーブ・ニーハウスやリック・リッツ(注:2人ともマリナーズの専属キャスター)の声が流れて来るのを聞くことができた。

誰もがマリナーズのことを話題にしていた。役員会議室でも、手術室でも。学校でも、教会でも。老人ホームでも、デイケア・センターでも。マリナーズは単なる野球チームではなく、大きな社会現象にまでなっていたのだ。

マリナーズは優勝の祝い方にも品格を示した。アメリカン・リーグ西地区優勝を決めた時、マリナーズは、グランウンドで折り重なって大騒ぎをしたり、シャンペンを掛け合って祝うことより、9月11日のテロの犠牲者達に祈りを捧げる場にすることのほうを選んだ。それは簡素でありながら、観る者の心を強く打つ儀式だった。

このチームの構成は、全ての監督の手引書にお手本として載せられるべきだと思える程、完璧だった。

パット・ギリックは、チームの全ての穴を埋める選手をみつけてきた。イチローは、マリナーズが今まで一度も持つことが出来なかった理想の一番打者だった。ブーンは、A−Rodの代わりにパワーを提供してくれる選手だった。ネルソンは、ホセ・メサの事を忘れさせてくれる、右投げのセットアッパーだった。

このチームは、まるでローズのダイヤのピアスのように、キラキラとした輝きを放っていた。登山家が山で日の出を迎える時に感じるのと同じような高揚感を、我々は、毎日味わうことが出来たのだ。

全ては御伽話のように素晴らしかったが、ただひとつ、この物語にはハピーエンドだけが欠けていた…。

10月になると、マリナーズのバットは沈黙し、ピッチングもモイヤー以外は不安定になってしまった。クリーブランドに勝つのに四苦八苦し、ALCSでは、5試合でヤンキースに敗れてしまった。

―だが、しかし、3ヶ月後の今、我々が思い出すのは、このプレーオフのことではない。さらには、116勝もした、レギュラーシーズンの特定の試合のことでもない…。

我々がはっきりと思い出すのは、このチームがこの町に6ヵ月もの間、毎日々、与え続けてくれた特別な感情(feeling)のことだ。それは、彼らが毎試合、体中で表現していた“プレーする喜び”(joy)である。そしてその喜びは観る者にも容易に伝わってきて、この生涯忘れ得ぬ夏に、我々をくらくらする程、幸せにしてくれたのである…。

                            (以上)(^^)